書評

2013年7月号掲載

他人事とは思えない

――ペティナ・ガッパ『イースタリーのエレジー』(新潮クレスト・ブックス)

小野正嗣

対象書籍名:『イースタリーのエレジー』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ペティナ・ガッパ著/小川高義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590102-8

 アフリカ出身作家の作品を虚心に読むのはけっこうむずかしい。最近では「最後の巨大市場」などと経済的なイメージがメディアを騒がせているが、あまりに遠いためにこの巨大で多様性に満ちた大陸について具体的なイメージが湧いてこないのである。
 ゆえに、アフリカは多様な国々からなるばかりではなく、ひとつの国のなかであっても、言語、文化、宗教、習俗を異にする人々が共存している場所も多いのに、我々はまるでアフリカが一つの国であるかのように、つい〈アフリカ文学〉などと口走ってしまう。さらに悪いことには、アフリカ出身の作家の作品を読むとき、我々は個々の作家の小説言語の特性、その主題および文体上の特徴を探る――これを日本や西洋出身の作家に対しては普通に行なっているにもかかわらず――のではなく、ざっくりと捉えた〈アフリカ〉につきまとうステレオタイプ――貧困、部族対立、政治の腐敗、エイズといったネガティブなものから、大自然、野生動物のサバンナといった牧歌的なものまで――を確認するための証拠や材料を探しがちである。ケニア出身作家ヴィニャヴァンガ・ワイナイナ(Binyavanga Wainaina)が、西洋の読者を喜ばせ納得させるようなアフリカについての紋切り型を列挙した、皮肉たっぷりのエッセイ「いかにアフリカについて書くか?」で指摘しているように、アフリカ人は〈我々〉と同じ人間であってはならないのである。したがって、日常生活(死が漂っている場合を除き)、アフリカ人同士の恋愛、アフリカの作家や知識人、病気にかかっていない子供について書くのは、御法度なのだ。
 だが、まさにそうしたタブーの主題を、つまりジンバブエに生きる人々の日常生活を描いているのが、ペティナ・ガッパの『イースタリーのエレジー』なのである。
 なるほど、たしかにエイズや貧困は、本書に収められた短篇のほとんどすべてにおいて暗い影を投げかけている。「ロージーの花婿のひび割れたピンク色の唇」で、花婿の唇がそんな状態になっているのはその病気のせいだ。表題作の「イースタリーの悲歌(エレジー)」では、ジンバブエの首都ハラレの都市浄化計画によって家と土地を奪われた人々が暮らすイースタリーという貧民街が舞台となっている。権力者たちの専横にも事欠かない。いまでは天文学的なインフレ率で有名なジンバブエは、かつてはローデシアという国であり、白人が大多数の黒人を支配する国だった。その白人支配から独立闘争を経てジンバブエ・ローデシアという暫定国家が生まれ、1980年にジンバブエという国家が誕生する。「軍葬ラッパが鳴り終えて」では、亡くなった独立の功労者の妻の視点から、身内や親族を優遇し、一族の蓄財に腐心する黒人政権の腐敗した姿が描かれている。
 このような富に執着し若い女から女へと乗り換える権力者、「黄金の三角地帯の真ん中で」や「妥協」で描かれる、日々の不満を欺瞞と妥協によってやり過ごしている都市ブルジョワ層の姿は、日本の社会に住む我々にとって馴染みのないものではない。
「アネックスをうろうろ」を見てみよう。主人公のエミリーは大学の法学部の学生である。失恋の痛手のあまりに、一度自殺の衝動に駆られた彼女は精神病院に入院させられる。人々は彼女についてあることないことを噂する。それが彼女を不安にする。
 日本でも都市と地方の格差が問題になっているが、「ララパンジから来たメイド」を読むと、ジンバブエでも様態は違えども同じ問題があることがわかる。「ロンドンみやげ」、「妹いとこランバナイ」は、海外で仕事や学業に失敗した事実を隠し続けて、自らの失望と自国の人々をごまかそうとする人物たちの物語だ。
 読んでいて他人事だと思えない。ページをめくるにつれて、こういう人たちいるよなと知った顔が浮かんでくる。ガッパの短篇群が、我々から遠いジンバブエに暮らす人物たちをかくもリアルに感じさせてくれるのは、視点人物たちが完璧な善人でも完全な悪人でもなく、弱さを抱えたまま必死に〈いま〉を生きる、あるいは不運や苦痛をなんとかやり過ごし、昨日よりましな今日を手に入れたいと願う者たちばかりだからだろう。でもそれって誰だろう? なんのことはない、〈我々〉もジンバブエの人たちもそんなに変わらなかったのだ。

 (おの・まさつぐ 作家)

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