書評
2013年7月号掲載
誤解と勘違いと正解と深読みとの間
――大竹伸朗『ビ』
対象書籍名:『ビ』
対象著者:大竹伸朗
対象書籍ISBN:978-4-10-431003-6
たとえば、久方ぶりに立ち寄った店で、常連客の友達から、笑顔とともに手渡されるのは、タバコのカートンケース、つまりはパッケージ。パッケージのみで中身はない。ただしエジプト産。友達は新婚旅行で立ち寄ったカイロのタバコ屋で見つけて購入し、パッケージを捨てずに持ち帰って大竹伸朗に渡す。しかも「ダサくてよくないですかコレ、好きでしょこういうの、特別なものじゃ全然ないけどスクラップブックに貼るなり何か作品にでも使えるんじゃないかと思って……どうぞ」という言葉とともに。つまり大竹伸朗はエジプト産タバコのパッケージのようなものが好きだと思われているのであり、その友達はあきらかによかれと思って手渡すのである。本書のなかにある「ヘンな道標」という文章に出てくるエピソードだ。ぼくは読みながら、せめてパッケージだけでなく中身ありの状態で渡せなかったのかと思いつつも、このパッケージをニコニコ顔で手渡されたときの大竹伸朗の表情を想像して笑ってしまう。「いらない」とひらがなにすればたった四文字の言葉を発するタイミングを失い、エジプトからやってきた空の箱は大竹伸朗の掌にのる。「いらない」は「ありがとう」に変換され、ふつうだったらゴミ箱行きの紙が芸術家のものになる。渡したほうは、これがあのスクラップブックの一ページに残ればいいな、いや残るだろう、ぜったい残るに違いないと思い、自分が偉大な現代芸術に貢献した気持ちになって、晴れ晴れとした気分で酒場を立ち去ったに違いない。
ぼくがはじめて会った一九八〇年代初めのときすでに大竹伸朗は分厚いスクラップブックをつくっていた。ときどき見せてくれたそこには、日常のあらゆる紙のゴミが貼られて膨れ上がっていた。それはもう圧倒された。だからぼくは、カイロで見つけたタバコの箱を大竹伸朗に渡す人の気持ちがよく分かる。まあ、ぼくなら「箱がダサくてよかったので」といいながら中身つきで渡すけどね。
大竹の「好き」と他人が思う「大竹伸朗はこういうのが好きだろう」にはずいぶん隔たりがあり、このエッセイ集はその隔たりというか隙間についてのものである。大竹の好きな、つまり自主的に手に入れた「ヘンなもの」は、たとえば高さ十メートルあまりの鉄製ボウリングピンだったり、数メートルの海上用ブイであり、これらに一目ぼれするのだから、サザエをかたどったお銚子とお猪口とか、宇宙人顔の陶製貯金箱とか、十五年前の中国製カレンダーとか、発光式女体型ライターだのが好意と笑顔で手土産として手渡されたとしてもしかたない。渡すほうばかりを責められない。そして、その誤解と勘違いと正解と深読みとの間に、大竹伸朗の芸術はあるのだと、この『ビ』を読みながら思う。
あるいは「仏式靴底鑑賞法」という文章に出てくるエピソード。大竹伸朗は来る日も来る日も「便所壁」を描いていた。「便所壁」は何かの比喩ではなく便所の壁。〈南米あたりの誰も見向きもしない落書きだらけの便所には、茶室の壁をはるかに凌駕する「侘び寂び壁」が潜んでいると今でも確信している〉というほどなのだから。その「便所壁」が完成に近づいたある日、来日中だったフランス人美術評論家から連絡が入り、仕事場見学がてら新作を見たいといってきた。温厚そうな初老の美術評論家は仕事場中央に進み入り、壁に立てかけられた絵をゆっくりと眺める。その直前まで大竹伸朗が描いていた絵は、美術評論家の靴の下である。〈「すいません、あなたは今絵の上に立っています」「見ていただきたい絵はあなたの靴底の下です」「出来たら現在位置からちょっとこちらへ」いくつかのフレーズを切り出そうとしたが、予想外のシュールな展開のまま時間が過ぎた〉
これは笑うべき事態か、悲しむべき事件か。いや、このとき絵画は、初老の美術評論家が作品だと気づかないほどリアルに描かれ、作品である気配を消し、本物の「便所壁」(というかアトリエの床)になってしまったのである。いわば「侘び寂び壁」ならぬ「侘び寂び床」。そして無意識的に靴底で鑑賞して上機嫌で去っていった美術評論家。残された「便所壁」に理想の絵の在り方を大竹伸朗は見る。
本書は現代最高の芸術家による日記であり芸術論である。しかもかなり笑える。
(ながえ・あきら 書評家)