書評

2013年7月号掲載

『異国のヴィジョン 世界のなかの日本史へ』刊行記念特集

世界と向き合うための鏡と窓

――北川智子『異国のヴィジョン 世界のなかの日本史へ』

別所哲也

対象書籍名:『異国のヴィジョン 世界のなかの日本史へ』
対象著者:北川智子
対象書籍ISBN:978-4-10-334341-7

 北川さんとは以前に、私が担当している朝のラジオレギュラー番組「J-WAVE TOKYO MORNING RADIO」でご一緒させて頂いた。異色の経歴と、斬新な視点を兼ね備えた北川さんの話に私は共感を覚え、刺激されたのを今でも記憶している。今回の著書のまえがきにある言葉、「自分を国から離すことで見えてくることがある――」。この言葉にも、私は強く共感を覚えた。
 私のはじめての海外体験は、旅行ではなかった。大学在学中から俳優を目指し始めた私は、「クライシス2050」という日米合作のSF映画のオーディションに合格し、アメリカに渡った。憧れのハリウッド、ロサンゼルスでの生活。夢と希望に満ちていたはずの生活は、しかし早々に行き詰った。現地のネイティブな英語がまったく理解できず、それは耳がロックしたような感覚で、聞くことも話すこともできなかった。とてつもない孤独の中、日本人スタッフがほとんどいないという環境も相まって、私は自分が“日本人”であるということを痛感し、そして深く考える時間を持つことになった。
 二ヵ月ほどたった頃、耳が慣れてきたせいもあるのだろうが、「自分は日本人なのだから、英語はセカンドランゲージで、完璧を目指すのは止めよう」と割り切り、聞きとれない発音は素直に聞くようにして、孤独や悩みからは解き放たれた。それはまさしく、日本人としてのアイデンティティに悩み、日本人としてのアイデンティティに救われた瞬間だったように思う。
 私は俳優を志す前、旅行作家か外交官を目指していた。映画のために渡米する前も、漠然とアメリカを中心とした外国に興味があり、グローバルな舞台で仕事をすることに魅力を感じた。俳優になった今も、休みを見つけては海外に赴く。それはもしかすると、自分が日本人であることを再認識するための、自己確認の旅なのかもしれない。
 著者の回想は、歴史家にもかかわらず、私が目指した旅行作家のごとく鮮明で、私が十年以上前に訪れ、記憶がぼやけかけていたアムステルダムとミラノの旅の記憶を思い出させてくれた。まだ訪れたことのないウィーンの魅力も、私に植えつけた。そして著者がバンクーバーで出会った「マルチカルチュアリズム」(多文化主義)。それは紛れもない巡りあわせで、著者がバンクーバーで学ばなければ、出会うことのなかった考え方なのだろう。人種の混ざりようと、それに対応した平等を保証する態度。さまざまなバックグラウンドの人々がひとつの場所で共存していくその際に必要な、国際理解とともに互いの繁栄を願う考え方――。
 99年から、私は「ショートショートフィルムフェスティバル」という国際短編映画祭を主宰している。今年で15周年を迎え、百二十もの国と地域から、五千を超える作品が集まった。今回もその中の約五百本ほどを視聴したが、一つ一つの作品は、それぞれの国や社会を映す窓であり、価値観や文化を映す鏡なのだ。そして、そういった作品を15年見てきたなかで感じるのは、感性は国の数、人の数だけ存在するが、それらはすべて平等であるということだ。
 著者は 「日本人が日本の事を語れない。日本という国への意見が無い。この状況が続くと日本は世界から消えていく」と語る。まったく同感である。映画祭を主宰している手前、世界各国のプロデューサーやクリエイターと話をするが、われわれの映画制作の能力をリスペクトしてくれる一方、辛辣な言葉を耳にする。「日本人は物語を作れるが、自分たちを物語ることができない」。これは国民性についての的確な指摘だと私は捉えている。日本人であること、日本とは――。心の深い部分で、自己理解や、国・アイデンティティというテーマを突き詰める作業を、どれだけの人間が出来ているだろうか? 著者が示す「異国のヴィジョン」という“鏡”がわれわれにとって必要なのは、より深い自己理解、人間理解のためだろう。言葉にすればとてもシンプルなことだが、それこそが、一人の人間としての究極の課題だと思うのだ。

 (べっしょ・てつや 俳優)

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