書評・エッセイ

2013年7月号掲載

巨大農業を「素因数分解」する

――石井勇人『農業超大国アメリカの戦略 TPPで問われる「食料安保」』

石井勇人

対象書籍名:『農業超大国アメリカの戦略 TPPで問われる「食料安保」』
対象著者:石井勇人
対象書籍ISBN:978-4-10-334251-9

 環太平洋連携協定(TPP)交渉への参加を表明した安倍晋三政権は、農業を成長産業として位置づけ、「所得を十年で倍増」など、具体的な目標を掲げた。目標の達成を願う一方、一連の政策の危うさを強く懸念する。
 そもそも、農業分野を成長戦略の柱の一つに据えること自体が妥当だろうか。農林水産業が極めて重要な産業であることは言うまでもないが、すでに国内総生産(GDP)比でみると一・四%(二〇一〇年)まで縮小しており、この分野に強い痛みの伴う「改革」を課し、それが成功したとしても、日本経済全体への影響は小さい。構造調整コストの大きさを考えると、到底「賢い」戦略とは思えない。
 特に怪しげなのは、農地の規模拡大を促進するための「農地中間管理機構」(仮称)の新設だ。耕作放棄地の所有者などから新機構がいったん農地を借り受け、それらをまとめて整備し、意欲のある農家に貸し付けるという「農業版地上げ」だ。ただ、優良農地なら今でも貸し出されているから、「新機構」に集まるのは、形が悪かったり、陽当たりが悪かったりと、問題のある農地が持ち込まれるに違いない。これを「整備」するために、土地改良事業が正当化される。
 四年前、二〇〇九年八月三十日の総選挙で圧勝した民主党の小沢一郎幹事長(当時)は、自民党の有力な支持団体だった全国土地改良事業団体連合会(全土連)を徹底的に締め付けた。同年末の予算編成では、農地の造成や農業用水路の整備などの土地改良事業費を、政権交代前の五七七二億円から二一二九億円に、実に六割以上も削減したのだ。
 二〇一二年十二月の総選挙で政権を奪還した自民党が、この「恨み」を忘れる訳がない。「新機構」は、おそらく各県単位の農業公社が母体になるだろう。赤字体質の公社を救済するとともに、土地改良事業の利権が「大復活」する。
 日本の農政は、自民党が安定政権だった時期も含めて、目先の利権をめぐり「政争の具」とされ続け、迷走を重ねて来た。コメの生産を過度に重視し、減反を続ける一方で農地を造成するという矛盾に満ちた政策は、その典型だ。
 TPP交渉への参加によって、本来もっとも真剣かつ冷静に検討されるべき課題は、いわゆる「食料安全保障」への影響だ。ところが、この「食料安保」という概念そのものが、日本では国際常識からかけ離れた意味で使われ、特定の農産物を高率関税で保護するための論拠として利用されてきた。
 このような日本の農政を、アメリカの当局者はどのようにみつめてきただろうか。二〇〇一年の中枢テロ以降、食品の安全性に対する意識が極めて強くなった。さらに世界の推定人口が七十億人を超え、中国など新興国の消費パターンが先進国型に変化することで、食料の絶対量の確保も差し迫った課題になっている。こうした環境の変化に、「日本はいつ真剣に向き合うのか」という焦燥感に近いものが、アメリカ側にはあるようだ。
 一方、日本側では、いざというときに食料を禁輸して外交に使うという「食料=武器論」、あるいは巨大穀物商社は相場を意のままに操縦しているという相も変わらぬ「陰謀論」がはびこり、「アメリカの農業は強く、日本の農業は弱い」という漠然としたイメージだけが、独り歩きしている。
 アメリカの農業は巨大であるだけでなく、多様性に富み、変化も早い。「世界のパン籠」という、食料供給面のアンカーとしての役割は弱まり、二〇〇七年以降の穀物相場の急騰を抑え込むことができず、いくつかの国では政権交代を招いた。エタノール生産と結びついたトウモロコシの需給関係は激変中だ。一方で、多投入型の大規模農業の危うさを知り尽くしているのもアメリカだ。有機農業や地産地消は、日本よりもはるかに急激に拡大している。
 巨大すぎてとらえどころがないアメリカの農業を、生産現場、農機メーカー、種子会社、流通業者、研究・開発など、さまざまな分野にばらばらに解剖したら、少しは分かりやすくなるかも知れない――こんな助言を、新潮社からいただいたのが、本書を書き始めるきっかけとなった。いわば数学の「素因数分解」のような発想だ。科学技術に対する絶大な信頼、強い増産意欲、ロジスティックス(物流)の創意工夫などが、アメリカの農業を形作る「素数」であり、これらがバランスよく統合されていることが「強さ」の源泉であるように思う。
 本書が、TPPなど日本の通商交渉や農業政策、ひいてはアメリカとの関係を客観的に考える上で、少しでも役立つことが、筆者の願いである。

 (いしい・はやと 共同通信社記者)

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