書評

2013年7月号掲載

“自分にだってできることがある”と思い知る

――小野不由美『丕緒の鳥 十二国記』(新潮文庫)

辻真先

対象書籍名:『丕緒の鳥 十二国記』(新潮文庫)
対象著者:小野不由美
対象書籍ISBN:978-4-10-124058-9

 本書は完全版と銘打たれた『十二国記』シリーズの、オリジナル短編集である。壮大にして精緻(せいち)なファンタジーの一郭に嵌(は)め込まれた珠玉四編。(中略)
 冒頭に掲げられた十二国の地図。なんと人工的に仕組まれた国々だろう。人間を含めたイノチは里木の卵果から得る。麒麟(きりん)は天意を帯して王を選び忠誠を尽くす。王が治世に倦(う)めば妖魔が跋扈(ばっこ)する。下級官吏でも仙籍をもてば不老不死となる。およそ読者をとりまく現実と違った、徹底したフィクションの世界がこの十二国だ。
 読み進んで驚くのは、すべてが想像力の産物だというのに、細部にわたって彫琢(ちょうたく)されたリアリティである。巨大な嘘(うそ)を現実化するために、作者はどれほどの注意をはらって異世界を創造したのだろう。造化の神のなした業というべきか。一切読者との狎(な)れ合いがない。流布される小説の嘘臭さは、この物語ではあり得ないのだ。(中略)
 繊細なディティルの積み重ねは、短編集だからいっそう特性を発揮している。巻頭の『丕緒の鳥』では、射儀を司(つかさど)る羅氏(らし)の丕緒を中心に物語は回転する。政治や軍事から距離を置く射儀とは、祭祀(さいし)にあたって催される儀典であって、「鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式」だそうな。ぼくが無知なのか寡聞(かぶん)にしてそんな式典が、中国や日本にあったことを知らない。まして標的になる陶鵲(とうしゃく)は「それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕け」「果ては砕ける音を使って楽を奏でる」というのだから、幻想の限りを尽くした架空の催事かと推察する。この一節を読んだだけで、ぼくは作者の想像の翼のひろがりに陶然とした。(中略)
 異世界ファンタジーの多くは、疾走する英雄たちの威風に焦点を合わせ、その言行を歌い上げる。読者の胸はスカッとする。決して自分にできないことを、絵空事のヒーローたちがやってのけるからだ。
 ところが『十二国記』は、断固として民の視点にこだわり抜く。『丕緒の鳥』では裏に回っているが、『月の影 影の海』このかた、蓬莱(ほうらい)(日本)から漂着した慶国の王、女子高校生陽子(ようこ)は、上からの目線で国政を執行することを拒否、民衆にまじって自分の立ち位置を確認する。
 このシリーズが読者にもたらす興奮は、一過性のものではない。“決して自分にできないこと”ではなく、必ず“自分にだってできること”があると思い知る――自分を発見する喜びと表裏一体だから、読む者の心をいつまでも揺さぶりつづけるのだ。(中略)
『十二国記』は国と国が争う物語ではない。拙(つたな)い紹介から酌(く)んでいただきたいのは、これは民の物語であること。国あっての民ではなく、民を生かすために存在するのが国なのだ。国だの王だの政府だのという代物(しろもの)は、断じて民を管理し圧制する装置ではない。とかく逸脱しやすい権力をつなぎ止めるために憲法はあるのだが、『十二国記』の世界にいわゆる民主主義は存立していない。唐突に王となった陽子は、権力のあまりの大きさと重さに耐えかねて、悩み、迷い、苦しむのだが、そんな少女の真摯(しんし)な成長物語はこの四作では背後に伏せられているから、ぼくが解説にあたるのは僭越(せんえつ)だ。未読の方にはぜひ目を通してほしいと、おすすめするに止める。
(中略)ここには、強烈な現実世界へのアッピールがある。『十二国記』という架空世界に投影される古代中国のイメージにまして、細部にわたる創作が加えられ、中核をなす神仙思想も既成のそれとは異なって、読者を独自の世界観に陶酔させてくれるのだ。

 (つじ・まさき 作家/解説より抜粋)
 

12年ぶりのオリジナル短編集!!img_201307_23_1.jpg

 『丕緒(ひしょ)の鳥 十二国記』

待望の書き下し新作2編を含む全4編、いよいよ登場!
己の役割を全うする男たちの清廉なる生き様を描く物語
「丕緒の鳥」国の繁栄を表す「鳥」を象るため苦悩する者。
「落照の獄」罪人は死して償うべきか、命の重さを問う者。
「青条の蘭」希望を繋ぐ苗を王の許へと届けるため走る者。
「風 信」生きとし生けるもののため、暦を作る男たち。

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