書評・エッセイ

2013年8月号掲載

猫たちとの幸せな契約

――岩合光昭『イタリアの猫』

平松洋子

対象書籍名:『イタリアの猫』
対象著者:岩合光昭
対象書籍ISBN:978-4-10-414806-6

 何度見ても初めての気持ちになり、目が吸盤状態になって動かせない自分がいる。ほかの猫写真では、ありえない。
 ただかわいいだけの猫写真は退屈だ。すでに「ホレかわいいでしょう、たまらんでしょう」、写真自体が上目遣いになっているので、はいはいわかってますかわいいです、という態度になってしまう。かわいいという区分領域は存外に危険で、思考停止をまねきがち。しかし、岩合さんの猫の写真には、そういう要素がまったくない(もちろん、とんでもなくかわいいのだが)。
 なぜだろう。その理由のひとつは、岩合さんの眼がいつもびっくりしているからではないかしら。不思議だなあ、うれしいなあ、驚かされるなあ、猫を見る視線が、つねに欣喜雀躍。かわいい・愛らしいだけの領域に猫を閉じこめていない。
 とはいえ、びっくりしているだけでは決して撮れないのが猫の写真で、身近に猫と付き合ったことのあるひとなら、一種とくべつな困難さを熟知しているはずだ。わたしは三年前に二十三歳の猫を看取ったが、つまり二十三年のあいだ猫と暮らしたが、写真と猫との特殊な関係をいやというほど思い知らされた。猫の姿はそれなりに写っても、ほんとうに撮りたかった猫ではなく、写真のなかにいるのは視線を縄抜けしたあとの姿。カメラを向けると、そうはいきませんぜ、とばかり、たちまち巧みに像をずらして実体を消してしまうのだ、猫というやつは。
 だから、いっそう岩合さんの猫に魅せられる。いったいどんな術を使えば、ここまでの自然体を捉えられるのか。猫はちょっとくやしいかもしれない。先に書いたように、あるがままの自分を掴まえさせないのが猫だから。
『イタリアの猫』には、その奇跡があちこちにちりばめられている。カンパニア州、シチリア州、トスカーナ州、ヴェネト州……イタリア各地の陽光と風のなかで、はつらつと、のびのびと、きりりと、みずからを解放した自由な姿が、そこにある。「ネコは街の暮らしの文化」とは、岩合さんがしばしば語る言葉だけれど、ほんとうだなあとつくづく実感する。レモン農家のかたすみ、城壁へつづく石段、広大な遺跡、緑繁るオリーブ畑、教会、サンマルコ広場、どこもかしこも猫の姿があることで艶めいている。街に色気がいや増しているのだ。
 表紙にも登場しているシチリアの猫、ドメニコにしても、街を舞台に変える名優だ。どしっと腹が据わった風貌で、カフェや庁舎前の広場の常連。ときどきハトを襲って日々の糧にしているらしいが、教会のミサの時間になると、街のひとに紛れて教会に入りこみ、懺悔をするというのだから、ひとかどの存在だ。ドメニコがいてこそのシチリアだと思えてくる。こうしてわたしたちは、猫たちに導かれてイタリアの街のなかへ深く誘いこまれてゆく。
 岩合さんの真骨頂を味わえる写真も、ちゃんと見つかる。あるかな、あるかな。期待に胸をふくらませてページをめくってゆくと、あった! トスカーナ州、空飛ぶ猫。キャプションにはあっさり、「勇気にはただ驚かされます。マルチアーナ」とだけ記されているけれど、いえいえ、驚かされるのはこの写真の奇跡のほう。写真家が満身の神経を研ぎ澄ませて捉えた、むささびのごとく宙を飛来する瞬間。圧倒的な身体能力によってみずからを解き放った猫の姿は神々しいほど自由だ。
 あとがきに、こう書かれている。
「ネコが好きになってしまってからはもう後戻りはできません。たとえ1日でもネコを見ない日があると不安になります。そしてネコを見つけることが出来るとうれしくなるのです。これは仕事としてネコに関わっているからだけではないような気がします」
 岩合さんは、我を忘れて秘術「ネコ歩き」をしながら猫の姿を求めて歩く。きっとそのうち、はんぶん猫となっている。手にしたカメラでさえ、すでに猫の一部になっている。ここにあるのは、猫たちとのあいだに交わされた幸せな契約。岩合さんのことは、ヴェネツィアの夜、猫の集会でも語りぐさになっていることだろう。

 (ひらまつ・ようこ エッセイスト)

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