書評・エッセイ

2013年8月号掲載

日中相互不信のスパイラル

――春原剛『暗闘 尖閣国有化』

神保謙

対象書籍名:『暗闘 尖閣国有化』
対象著者:春原剛
対象書籍ISBN:978-4-10-135393-7

 二〇一〇年九月の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件は、日中関係の構図を大きく揺るがせた。一九七〇年代に鄧小平が尖閣諸島(中国名:釣魚島)に関しては「次世代の知恵に委ねよう」と語ったとき、その発言の背景にあったのは「この問題は話がまとまらない」という判断であったという。だからこそ日中両国は、長年にわたり尖閣諸島に関しては慎重に政治問題化を避けるという暗黙知の共有を互いに期待してきたのかもしれない。しかし、二〇一〇年以降の尖閣諸島をめぐる日中のあからさまな外交対立は、パンドラの箱を開けるかのように、制御困難な状況をもたらした。その後、今日まで日中関係は関係改善の機運を失ったまま、漂流を続けている。
 春原剛著『暗闘 尖閣国有化』は、この漁船衝突事件から二〇一二年九月の尖閣国有化に至る日本国内の政策過程を描いた渾身の著作である。春原氏は日本経済新聞社の記者・編集委員として、これまでも日米同盟・朝鮮半島・米中関係などを中心に、日米両政府関係者への綿密な取材を通じた優れた著作を世に送り出している。本書が扱うのは、尖閣国有化に関わる日本国内の関係者の「暗闘」だが、春原氏はそれぞれの取材対象に肉薄し、登場人物の息づかいさえ感じ取れるほど政策過程の臨場感を描き出している。日本の国益の保持と日中関係の安定をめぐる二律背反的な志向で合成された対中政策が、二国間の落としどころを見いだせぬまま、日中双方の不信のスパイラルをもたらす苦悩こそが、本書を貫くテーマとなっている。
 そのプロローグとなるのが、尖閣諸島沖での漁船衝突事件である。日本政府は、尖閣諸島付近で海上保安庁の巡視船に故意に衝突した中国漁船の船長を逮捕し、送検・勾留延長の末、那覇地方検察庁が処分保留で釈放する措置をとった。政府首脳は船長逮捕へと毅然とした判断を下すが、その後の日中関係を制御し事態を収束させるマニュアルは存在しなかった。船長の勾留期間が経過する中で、中国政府の抗議と対抗措置は日々激しさを増していく。こうした中での那覇地検による処分保留と釈放は、日本国内では中国の圧力に屈した弱腰と批判されたが、実際には日本の法令を適用した「強硬な一歩」でもあった。本書では、同事案が日中間の認識ギャップを「もはやお互いに制御しようもないほど」広げさせる過程だったと論じられる。
 その後、二〇一二年四月に東京都知事・石原慎太郎は唐突に尖閣諸島を購入する意思を公表した。これを契機に、首相・野田佳彦は東京都による購入計画を阻止し、日本政府が取得する(=尖閣国有化)方針へと大きく舵を切っていく。当初地権者である栗原氏との交渉に自信を見せていた石原知事だったが、政府の切り崩し工作によって次第に構図が変化していった。また同時に、政府首脳部は尖閣諸島を国有化した場合の中国政府の反応と、その制御の方法について中国外交当局への水面下での「静かなアプローチ」も図っていた。こうした状況下で、野田首相は尖閣諸島の「平穏で安定的な維持管理」のためにも国有化が必要という決断に踏み切るが、同時に中国側を必要以上に刺激することを避けるため、船溜まりの設置や灯台の改修といった現状の変更を一切実施しなかった。
 中国は不承不承にも事態を収束させるのではないか、という日本側の一抹の期待はその後の中国の激しい反発によって打ち消されることになる。その背景には、もう一方の当事者、中国政府の対日政策をめぐる暗闘があった。中国もまた日本への安易な妥協を許さない、権力移行期の政治と社会の緊張感に覆われていた。本書は中国外交当局との交渉に携わった関係者の証言から、中国の対日政策の非妥協性を深めざるを得ない構造を、丁寧に導き出すことにも成功している。
 本書で語られるエピソードには、日中の対立が制御不可能な地点へと推移しかねないという危機感が込められている。もはや一九七〇年代の日中関係の前提によって、二十一世紀の両国関係を規定することは不可能なのかもしれない。しかしこの暗闘の内幕には、日中関係の安定化に尽力しようとする政策決定者たちの努力と苦悩がある。この暗闘が日中双方の読者に理解されなければ、現代の日中関係の処方箋は探しえないであろう。

 (じんぼ・けん 慶應義塾大学総合政策学部准教授)

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