書評・エッセイ

2013年9月号掲載

『爪と目』刊行記念特集

あなたに語っている

――藤野可織『爪と目』

大澤信亮

対象書籍名:『爪と目』
対象著者:藤野可織
対象書籍ISBN:978-4-10-120271-6

 一度読み始めると、先がどうなるのか気になって、結局最後まで読まされてしまう。この読感はエンターテインメントに近い。しかし、そこには確かに、文学とでも呼ぶしかない感覚が存在している。永遠に続きそうでもあり、一瞬で壊れてしまう私たちの日々を、ただ感動で慰労激励するのではなく、そんな生活の根源自体を見ようとする、意志のことだ。
 たとえば、藤野可織氏はデビュー以来、恐怖について書いてきた。鳥人間と格闘する男(「いやしい鳥」)、巨大恐竜に呑み込まれた母(「溶けない」)、自分が幽霊であることに気づけない女(「パトロネ」)、美術館に棲んでいる双子の悪魔(「いけにえ」)……。こう並べると荒唐無稽だが、いずれも舞台は日常の空間であり、そこに書かれた恐怖はすべて、私たち自身に関係している。ただし、善良で平凡に生きている私たちがある日突然襲われる、「日常に潜む恐怖」ではない。
 生きていることが怖い。見なれたものを凝視するとき、人は、自分自身の不気味さに気づく。現実を含まないどんな空想もなく、空想を含まないどんな現実もない。両者を峻別することで私たちは生きている。だが、藤野氏が繰り返し書くのは、空想と現実が区別される手前の感覚、人間が異物に遭遇した瞬間に襲われる、生理的な恐怖である。さらに言うなら、その異物を殺して平然と生きる、人間への恐怖だ。
 本書の表題作であり、第一四九回芥川賞を受賞した「爪と目」は、そんな「純文学ホラー」の確立を記念している。
 冒頭はこう始まる。〈はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った〉。こう語る一人称の〈わたし〉は三歳の女児。三歳児がこんな風に見ているはずがないとか、一人称小説のルールを破っているとか、その種の「常識」的な思い込みは捨てよう。そういう決めつけこそが、私たちの視力を奪うからだ。言葉を習得する前の自分が、何をどう見ていたのか、今となってはもう誰も思い出せない。ならば、私たちに出来る努力は、異物の見ているものを想像し、その声を聞こうとすることだけだ。
 気の向くまま父と不倫を重ね、やがて母の死をきっかけに家に転がり込んできた〈あなた〉に、〈わたし〉はずっと語りかけているのだが、その声は〈あなた〉に届かない。当時は言葉にできなかったからだ。しかし、それだけではなく、そもそも〈あなた〉は、人の話を聞く気がない。見たいものしか見ない。だから何も恐れない。〈恐怖はつるつるとあなたの表面を滑っていった〉。それに苛立つように〈わたし〉は自傷的に爪を噛む。黙々と菓子を食べ、丸々と太っていく。
 この「見ないこと」が作品の根底を支配している。
「あんたもちょっと目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいことも、すぐに消え失せるから」
 これは作中で登場する〈架空の独裁国家を舞台にした幻想小説〉の一節だ。こう語った独裁者は無数の人々を思うまま殺した。彼は〈見ないことにかけては超一流の腕前〉で、革命が起き、自分が民衆に殺される瞬間さえ、自分の見たいもの以外は絶対に見ようとしなかった。この男は、夫の不義を見て見ないようにしている自分に耐えられず、死んでしまった〈わたし〉の母すら見ようとしない、父を思わせる。
 この独裁者の言葉を読んだとき、ただ一度だけ、あなたはなにかを考えようとしていた。わたしはあなたに目があることを自覚させたかった。見ないことが前提で出会ってしまったあなたたちを何とかしたかった。それで、古本屋の男があなたからコンタクトを奪ったように、あなたの両目に、爪から剥がしたマニキュアの薄片を突き刺した。でも、そんなことより、あなたを立ち止まらせたのは、文字だった。引っ掻き傷のような装丁の、カバーに爪の跡がある、あの本だ。
 爪と目の起源は今から五億四千三百万年前のカンブリア紀に遡るらしい。最初に光を手に入れた軟体生物は、未だ目を持たない他生物を一方的に食べた。虐殺から身を守るために彼らは全身を硬い鱗で覆った。やがて鱗は棘状の武器へと進化する。それは爪となり、刻まれた爪跡は時代を超えて、文字となり、本となって、今も「目」との争いを繰り広げているが、それでも、あなたとわたしの区別を超える、その太初の目の先にあったはずの光景を、わたしは信じている。

 (おおさわ・のぶあき 批評家)

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