対談・鼎談
2013年9月号掲載
石田衣良『水を抱く』刊行記念対談
性をリアルに描くこととは
村山由佳 × 石田衣良
文学的鉱脈はどこにあるか/性依存症の女の子を凜々しく書く
心の領域を広げるために/乱暴な批判には想像力で抗う
対象書籍名:『水を抱く』
対象著者:石田衣良
対象書籍ISBN:978-4-10-125059-5
文学的鉱脈はどこにあるか
石田 『水を抱く』は「週刊新潮」で約八ヶ月間連載したのですが、常にギリギリのスケジュールでした。日程を勘違いしていたとはいえ、一度締め切りに間に合わなかったことがありまして。
村山 私もつい最近まで『ありふれた愛じゃない』という小説を「週刊文春」で連載していましたが、最後まで一回もストックをもてなかったです。毎週、校了前日のギリギリまで書いていました。
石田 でも僕は、五十歳を過ぎて、頭痛や肩こりといった体の不調を感じるようになってから、自分のことは大目に見ることにしたので、あまり気にしません(笑)。
村山 ご自分に優しくなったのですね(笑)。それにしても石田さんとは、直木賞の同期受賞でもありますが、互いの作品が偶然リンクすることがこれまでも多くありました。石田さんの長編小説『夜の桃』(二〇〇八年五月刊行)と私の『ダブル・ファンタジー』(二〇〇九年一月刊行)、『sex』と『アダルト・エデュケーション』(共に二〇一〇年刊行)というように、性や性愛を描いた小説が、同時期に刊行され、それぞれ物議をかもしたりしましたよね(笑)。きっと、その時代の風潮の中でどこに文学的鉱脈があるのか、見極めるアンテナが似ているのかもしれません。
石田 いまは時代が保守化しているせいか、性の問題はこれまで以上に、クロゼットの中に隠されるものになってしまっていますよね。少子化の問題が声高に叫ばれているのにも拘らず、ますます頑なになっていく現状には、危機感すら抱いてしまう。
村山 男性の性も女性の性も表に出なくなっている中、大人の男性の性の衝動や性的快楽の質、どういう現象が起こるのかといった具体的な生理を、この作品で初めて言葉で読んだ気がしました。どこに刺激が集まるのか、それはどんな快感でどういった焦燥感に襲われるのか――実に赤裸々に書いて下さっていますね。
石田 えー、そんなこと書いたかな、全然覚えてない(笑)。ただ、最近ある担当編集者が、性を描ける女性作家は年齢問わずたくさんいるけれど、男性作家、特に若い書き手ではほとんどいないと嘆いていました。もしかしたら、ベッドシーンをきちんと描ける男性作家の下限に、僕はなったのかもしれません。
村山 若い男性作家に会った際に、「書く人がいないんだからそこは狙い目よ」とアドバイスしてみたりもするのですが、「自分が普段しているセックスが、そのまま出てしまうようで恥ずかしい」と、みなさん口を揃えて言うのです。でも、恥ずかしいことが書けないようなら、作家なんてやめちゃえ!というくらい、そこは書き手として本質的な問題だと思いませんか?
石田 おっしゃる通りです。俳優が同じことを言ったら、仕事がこなくなりますよ。
性依存症の女の子を凜々しく書く
村山 主人公である伊藤俊也(二十九歳、独身)は草食男子で、性に奔放な年上の女・ナギとネットで知り合い、彼女に振り回されていく。今回のテーマは、どのように考えられたのですか?
石田 単純に、草食男子を恋愛的、性愛的に追い詰めてめちゃめちゃにしてしまいたかったんです。貯金が趣味の草食男子が、女装させられて秋葉原を歩いたら……などと、どんどん妄想を広げていきました。だから、俊也には僕自身はまったく反映されていません。
村山 ほんとかなあ(笑)。私は正直、俊也は好みのタイプではありません。そもそも「草食男子」とは、単に、男らしさを磨くことをやめた状態のことでしょ。それが、呼び名が付いた途端、安心したのか、急激にその数が増えましたよね。ただ俊也は、ナギの壊れた心――それはまるで、開いてはいけないドアの蝶番が壊れてしまっているかのように、とても危うい状態にある――を、頑張って受け止めようと努力はしているな、とは感じました。
石田 それは面白い。きっとナギにとって俊也は、安定剤のようなものなのでしょう。俊也にはモデルはいませんが、実はナギにはいるのです。長く出演しているある番組で知り合った、性依存症の女の子です。アルコールや薬物と同じように、セックスに依存しないと生きられない病気です。例えば、ふらっと飲みに寄ったバーで、カウンターにいた七人の男全員に声を掛けて寝る約束をして、本当に全員とセックスしてしまう――そんな衝動に苦しんでいるけど何とか生き延びていますと、彼女は番組内で堂々と話すのです。同じ症状を抱えていた仲間で亡くなった子もたくさんいるけどね、と付け加えながら。
村山 ナギが本屋でフラッシュバックを起こして倒れてしまう場面がありますが、それも彼女の実体験ですか?
石田 そうです。今日が何月何日だか分からなくなってしまうというエピソードも、実際に聞いた話です。そんな女の子を凜々しく描くことが、今作の大きな目的でした。ナギを書くのは楽しくて、もっと暴れてくれないかなと、自分でも期待しながら執筆していたくらいです。
心の領域を広げるために
村山 あるページまでたどり着けば結末が用意されている「小説」だから、ナギが抱える性の苦しみも安心して読むことができる。でも現実は厳しいですね。というのは、共著を刊行したご縁で、精神科医の斎藤学(さとる)さんが講師をされたシンポジウムに参加したのですが、その時に、性的虐待の被害者と加害者、両方の話を聞きまして……。
石田 それはきつかったでしょう?
村山 ええ。話す側は準備してきていても、聞く側は準備できていない――特に、娘に性的虐待をしていた加害者男性の話は、一番応えました。後悔は本物なのでしょうが、何度も語ったためか反省の弁が立て板に水の「物語」になってしまっていて、女である私はどう反応していいかわからず、ずっと拳を握っていました。
石田 僕も性的虐待の被害者の話はいくつか聞いたことがあります。両極端といいますか、本当に個人差があって。ある女の子は、幼い頃布団の上で父親から暴行を受けたせいで、以来十数年間、布団に触れられなくなってしまい、真冬でも板の間にバスタオルを敷いて寝ている。医師が通院をすすめるほど危うくて、死の影さえまとっていました。一方で、初めての相手が父親だったけれど、今もその父親とは仲が良く、二人で海外旅行に出掛けているという子もいた。
村山 後者の子は父親との関係が続いているのかしら。
石田 そこまでは聞けませんでしたが、いずれにしても、現実というものが、分からなくなりました。でも、現実の厳しいこと辛いこと恥ずかしいこと複雑なことを、どんどん深く掘り下げながら、少しでも人間の心の領域を広げていくのが作家の仕事ですから。キレイでカワイイだけの世界を描いても、文学的インパクトはありません。
村山 そうですよね。古い考え方かもしれないですが、物書きならば、自分にとって一番恥ずかしい、目を覆いたくなることをこそ掘り下げて、それを露悪のためでなく普遍に近づくために書くべきだと思うんです。
乱暴な批判には想像力で抗う
村山 石田さんは、新刊を出した際にネットのレビューを覗いたりします?
石田 僕は自分の本に関しては全く見ません。ですが先日、ある映画のレビューサイトを見たら、あまりに攻撃的なレビューばかりで驚きました。
村山 最近では作品自体への好悪がすぐ人格攻撃へとすり替わりますね。私が、性に奔放な女性を主人公に描いたときは、特に同性からの強い批判を受けました。例えば、男性読者から「女はこうあるべき」「女のくせにはしたない」といったように、古い価値観のもとで批判されるのは予測できたのですが、同年代や年下の女性からの憎しみのこもった揶揄には、さすがに驚きました。「自分は我慢しているのに、自由に性の愉しみを享受する女は許せない」ということなのかと。
石田 電車内でベビーカーを畳まない若い母親に対して、特に厳しいのがおばあさん世代だというのと、根本は一緒ですね。自分たちは抑圧されて耐えてきたのだから今の若い子も頑張りなさいと強制してしまう。そういったレビューに書き込む人は、自分の言葉の効果を推し量らず、銃を撃つように言葉を放っているのでしょう。これは表現だから、その作家の創作だから、と許容されるべき範囲が狭まって、その人の道徳律だけで小説を裁く頑なさは、本当に恐ろしい。
村山 一昔前と比べて、言葉の怖ろしさを知る人が減り、批評からも品性が失われましたね。また、差異を許さないといいますか、「自分が絶対的な正義」というような、ある種の凶暴さも現れているような気がします。時代が閉塞的になって、今いる場所で生きていくために我慢することが増えている。だから、自分とは違う価値観で行動している他人が許せなくなり、攻撃的になってしまうのでしょう。
石田 この小説で、ナギが抱えた闇についての真相は、物語の後半で明かされていくのですが、中にはそれについて強く批判をする人が出てくるかもしれません。けれど僕は、なるべくリアルな話を書きたかった。うすっぺらで弱い想像力では寄り添えない、本当の現実の辛さや悲しさを描きたかったんです。だから、誰に何を言われようと平気です。
村山 ナギと俊也がどう生きていくのか――単純にハッピーエンドということではなく、きっと石田さんは「最終的に人生を肯定する物語」をお書きになりたかったのだろうと思いました。
石田 ありがとうございます。もちろん、二人の性のプロセスも楽しんでもらえたら嬉しいです(笑)。
(むらやま・ゆか 作家)
(いしだ・いら 作家)