インタビュー

2013年9月号掲載

『移された顔』刊行記念 インタビュー

「顔移植」の苦悩と希望

帚木蓬生

帚木蓬生

対象書籍名:『移された顔』
対象著者:帚木蓬生
対象書籍ISBN:978-4-10-331421-9

 顔移植の話を書きたいと初めて思ったのは、二〇〇五年にフランスで世界初の部分顔移植が成功したというニュースを医学雑誌で読んだときです。
 それ以前から、顔には関心がありました。
 二〇〇四年には、病によって崩壊した顔面に仮面をつけて生きる女性が出てくる「顔」という短編を書いています(『風花病棟』所収)。さらに遡れば、一九六八年に上智大学の大講堂で受けたTBSの入社試験で、「私の顔」という題で書けという作文問題が出されました。そのときには、自分の顔が他人からどのように認識されているのかを巡って小論文に書きました。いま思えば、入社試験を受けたあたりから、人間にとって顔とは何かと考え始めていたのかもしれません。
 一方、移植に関しては、医師になってからずっと興味を持ち続けていました。一九九三年には『臓器農場』という小説も書いています。「顔」と「移植」、ふたつの対象に対して持っていた興味が、ニュースを読んだときに結びつき、これは顔移植についていつかは必ず書かないといけない、と強く思ったのです。
 臓器を誰かからもらうのと、顔をもらうのとでは、決定的な違いがあります。日常生活で、自分の体のなかにある臓器を、これは自分のものだと意識することはほとんどありません。しかし、顔はそうではない。鏡などで一日に何度も自分の目で見るので、これが自分の顔だ、自分のものなのだと意識せざるをえません。顔に対して、所有の感覚が生まれると言い換えることもできるでしょう。臓器には、それがない。
 手術が成功したあとも、臓器であれば徐々に自分のものになっていく、自分と同化していきやがては自分のものになる、と信じることができるかもしれません。顔は、そう考えるのが難しい。貸衣装と同じで、少しずつ慣れてはくるのでしょうが、いつまでたっても、自分のもの、自分の顔だと、無条件に感じることはおそらくできない。それまでの自分の顔のイメージが、どうしても頭の中に残り続けるからです。顔が変わることによって、内面に影響を与えることだってあるでしょう。ドナーもレシピエントも、そして家族も、多くの苦悩を抱えながら、移植後も生活していかなければなりません。けれども、希望もあります。
 顔を失った人たちの感想に、楽しくても笑えない、嬉しくても悲しくても涙をながせない、孫にキスをしたいのにできない、と、顔を失う前であれば当たり前にできたことができなくなったことに対する嘆きが、多くありました。顔の筋肉は複雑な構造をしていますから移植後のリハビリは過酷でしょうし、肉体的、精神的な違和感の克服も大変です。それでも、笑ったり涙を流したり、キスができるようになったときに感じる喜びは、無上のものだと思います。
『移された顔』には、顔移植をテーマにした短編と戯曲、医学的なレビューが収録されています。一番書くのに苦労したのは、戯曲でした。
 設定自体はすぐにできあがり、第一稿は小説よりも短い期間で書き上げることができました。しかし、どうもしっくりこない。そこから何度も書き直しました。二百枚強の戯曲なのですが、完成するまでには、いつも私が書いているような千枚を超える小説と同じくらいの時間がかかりました。
 大学時代の仏文科の卒業論文は、マルグリット・デュラスを扱ったものでした。そのときからいつかは戯曲を書いてみたいとずっと思っていました。長年の夢だったといってもいい。デュラスの作品には戯曲が多くあり、そのなかのひとつ「セーヌ・エ・オワーズの陸橋」を訳しノートに書いたことはありましたが、自分の作品として戯曲を書いたのは、今作に収録されている「移された顔」が正真正銘、初めての経験です。そしておそらく、最後の戯曲作品になると思います。
 顔移植について書かれたものとしては、これまでもないだろうし、これからもないだろうという一冊になったと確信しています。日本で顔移植の手術が行われるのも、それほど遠い未来ではないはずです。いつかはドナーカードに、顔という項目が設けられるかもしれない。そんな日が来る前に『移された顔』を多くの方に手にとってもらえればと思っています。

 (ははきぎ・ほうせい 作家)

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