書評
2013年9月号掲載
新潮クレスト・ブックス創刊15周年特集
「呪い」と「祈り」
――ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『こうしてお前は彼女にフラれる』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジュノ・ディアス著/都甲幸治・久保尚美訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590103-5
甘くとろかせる熱波。黒く焼け焦げる砂糖のかおり。リズムは一定の調子を刻むのでなく、性急に、ベッドの上の律動のように全身で前にのめり、押しとどめようのない衝動のまま、真っ黒い肉の淵へとなだれこむ。ふんわりした語感にだまされてはいけない、メレンゲは、カリブ音楽のパンク、凶暴な太陽の下でのヒップホップ音楽だ。
そこらじゅうの空気がこの、メレンゲの振動で揺れている国、うまれてから墓にはいるまで、メレンゲを呼吸しつづけるひとびとの国、ドミニカとは、その歴史をみると、カリブ海上のある区画を指す名称でなく、ある種の「呪い」あるいは「祈り」を指すようにおもえてくる。
コロンブスの「発見」以降、侵略、絶滅、暴力のるつぼだった。支配する国が、スペイン、フランス、隣国のハイチ、アメリカ軍と流転をつづけようが、いつもかわらず、狂信者、山師に海賊、売春婦たちの楽園だった。ドミニカとは「安息日」の意味だが、この国ではずっと、神様のほうが安息日をとっている、そういわれてきた。
むろん、亡命、外への移住も相次いだ。ところが不思議なのは、ドミニカでうまれた人間は、いずれまた、ドミニカに帰ってくる。それが叶わない場合、まわりを砂糖菓子やメレンゲで飾り、生活をドミニカ化する。そこから「呪い」あるいは「祈り」がにじむ。ジュノ・ディアスの小説世界では、ドミニカを遠く離れたはずの男女に、いつだってドミニカが追いすがり、あっという間に真っ黒い淵へとひきずりこんでしまう。足もとの土地があれよあれよとドミニカ化し、ゆらぎ、ひびわれ、気がついたら、ぐじゅぐじゅにぬかるんで、とても立っていることができない。
申し分のない恋人がいるのに、その知り合いと行きずりのセックスをする。そうしてそのベッドから恋人に電話し、会えなくて寂しい、と言い訳のように口走る。
ガンに冒されつつ、いつものジョークをまわりに振りまきながら、人生はじめての職につく。病院を脱走し、自動車を駆って、遠く州外へ逃げだそうとする。逃げだそうとしたのは、ほんとうに病院からなのか?
浮気相手とのセックスのことを克明に日記に書く。それを盗み読んだ恋人は、芝生の上で金切り声をあげる。
そこらじゅうの空気がこの、メレンゲの振動で揺れている国、うまれてから墓にはいるまで、メレンゲを呼吸しつづけるひとびとの国、ドミニカとは、その歴史をみると、カリブ海上のある区画を指す名称でなく、ある種の「呪い」あるいは「祈り」を指すようにおもえてくる。
コロンブスの「発見」以降、侵略、絶滅、暴力のるつぼだった。支配する国が、スペイン、フランス、隣国のハイチ、アメリカ軍と流転をつづけようが、いつもかわらず、狂信者、山師に海賊、売春婦たちの楽園だった。ドミニカとは「安息日」の意味だが、この国ではずっと、神様のほうが安息日をとっている、そういわれてきた。
むろん、亡命、外への移住も相次いだ。ところが不思議なのは、ドミニカでうまれた人間は、いずれまた、ドミニカに帰ってくる。それが叶わない場合、まわりを砂糖菓子やメレンゲで飾り、生活をドミニカ化する。そこから「呪い」あるいは「祈り」がにじむ。ジュノ・ディアスの小説世界では、ドミニカを遠く離れたはずの男女に、いつだってドミニカが追いすがり、あっという間に真っ黒い淵へとひきずりこんでしまう。足もとの土地があれよあれよとドミニカ化し、ゆらぎ、ひびわれ、気がついたら、ぐじゅぐじゅにぬかるんで、とても立っていることができない。
申し分のない恋人がいるのに、その知り合いと行きずりのセックスをする。そうしてそのベッドから恋人に電話し、会えなくて寂しい、と言い訳のように口走る。
ガンに冒されつつ、いつものジョークをまわりに振りまきながら、人生はじめての職につく。病院を脱走し、自動車を駆って、遠く州外へ逃げだそうとする。逃げだそうとしたのは、ほんとうに病院からなのか?
浮気相手とのセックスのことを克明に日記に書く。それを盗み読んだ恋人は、芝生の上で金切り声をあげる。
頭を垂れ、男らしく認める代わりに、お前は日記をつまみ上げる。まるで赤ん坊のウンコがついたオムツみたいに、セックスで使ったばかりのコンドームみたいに。お前は問題の個所をちらりと見る。そしてアルマに微笑みかける。お前が死ぬ日まで、お前の嘘つきの顔が憶えてるような微笑みだ。お前は言う。なあ、これはおれの小説の一部だよ。
(「アルマ」)
一行に満たないほんのひと言が、鉄板に思われていた関係を、一瞬で、ひとたまりもなく、砂糖細工のように粉々に砕く。そんなこと、当たり前のようにわかっているのに、そのひと言を、どうしようもなく、空間に吐きださずにはいられない。ドミニカとは、そんな運命に搦め取られた、人間のいとなみのことだ。大切に、大切に集めた、家族写真のアルバムを、目をらんらんと見ひらいたまま、燃えさかる火のなかに投じずにいられない。ただ、そこにあるのは、自暴自棄でない、そのひとのなかにだけ発露する、ことばにできない理由。どはずれた真摯さ。「呪い」と「祈り」。ぐじゃぐじゃに崩れていく土地にふんばって立つ、人間の、ほんとうの素足。
フラれるのは、浮気性だから、みにくいから、貧乏だからではない。どうしようもなく人間であるから、わたしたちはフラれる。虚飾をひきはがされ、素っ裸になって、自分のなかに白々ともえる、ちっぽけなひとのかたちと向きあう。それこそ実は、勇気のいることだ。ジュノ・ディアスの描く男たちが、フラれながらも、力強く、雄々しくフラれてみえるのは、そんな切実さをいつも拳に握りしめているからだ。
(いしい・しんじ 作家)