書評・エッセイ

2013年9月号掲載

人は一人では死ねない

――里見清一『見送ル ある臨床医の告白』

井上由美子

対象書籍名:『見送ル ある臨床医の告白』
対象著者:里見清一
対象書籍ISBN:978-4-10-329942-4

 もしあなたが余命いくばくもない病とわかったら、どんな医師に最期を看取ってもらいたいだろう。可能性が少なくとも高度医療に賭けてくれる医師だろうか。それとも苦しまずに死なせてくれる医師、或いは上手に嘘をついてくれる医師だろうか。日本の総医師数が30万人近くに上る今、患者はそれぞれの病状や個人的な事情によって、最期の主治医を選び命の終わりを託す。「この先生でよかった」と満足して永遠の眠りにつく人もいれば、「こんな医者じゃなかったら、もっと生きられたのに」と恨みを抱きながら亡くなる人もいる。インターネットが発達し、誰でも簡単に医学情報が手に入るようになってから、医者選びは患者の大きな仕事になった。とくに、がんという病においては、もっといい治療を、もっといい先生をと病院を変わる人も少なくない。
 本書『見送ル』は、そんながん治療の最前線に立つ医師が患者を見送る日々の物語である。著者は現役の臨床医。ペンネームの里見清一は山崎豊子さんの小説「白い巨塔」の登場人物からとられた。主人公の財前五郎ではなく、友人である里見脩二の兄の名前を選ばれたことに著者の思いを感じる。私は、2003年に放送されたドラマ「白い巨塔」の脚本を担当した際、著者に医療考証で助けていただいた。テレビドラマにおける医療考証とは病院のシーンが医学的にリアリティをもつように指摘していただくことだが、著者は病院内だけでなく、主人公の財前や里見の心の内について多くのアドバイスを与えてくれた。医師が何を思い、患者についてどう心を砕いているか。著者の言葉は命の瀬戸際に立つ者ゆえの臨場感と哲学的な深さにみちていた。『偽善の医療』や『衆愚の病理』などの著書が、お医者さんの打ち明け話的なエッセイとは全く違う鋭い社会論だったのは言うまでもない。
 しかし、今回、著者が初めて「小説」を書くと伺い、余計なお世話だが、私はちょっぴり心配になった。なぜなら、あまりにも過酷な現場に生きている方はフィクションに魂をこめるのが難しいのではないかと思ったからだ。だが、読み始めてすぐ私は軽薄な心配をしたことを恥じた。『見送ル』は臨床医の経験を下敷きにしながら、登場人物の魅力と物語の引力にみちた濃密な「小説」だった。
「私」なる医師の告白で進む本書は四話からなり、がんの末期を迎えた患者との出会いと別れが重層的に描かれている。かつて喘息を患った「私」が東大医学部卒業後、呼吸器科の医師になり、癌センターで患者と向き合う日々を経た後、民間の病院に赴任する。それぞれの患者とのやりとりは壮絶だが、「私」の独白が時に毒舌とも思えるほど本音をさらしているせいか、医師も患者も人間くさく、目が離せない。
 私が最も印象に残ったのは第四話の患者、戸川さんの話だ。まだ若い患者には妻がおり、幼い子供がおり、そして両親がいる。しかし、家族がいれば些細なことで意見が対立することも多い。戸川さんの家族も残された日々がわずかになったある日、悲しい溝が生まれた。幼い子供の見舞いを待つ患者に対し、両親である祖父母は、やつれた父親を見せるのは「トラウマになる」と言いだしたのだ。それを聞いた「私」は戸川さんの7歳の娘に直接、会う。「お父さんは辛い思いをされているでしょう。そういうときは家族と一緒にいたいものです。できるだけ、そばにいてあげて下さい。これは先生からのお願いです」こう語りかけた後、花粉症だと偽って涙を流す「私」の心中を思い、胸がつまった。
 著者のペンネームである里見清一は教授とそりが合わずに大学病院を辞めた町医者である。彼は決して立派な医師ではない。良心を貫きたいと願いつつも医療に迷い、俗世間のさまざまな葛藤に悩む。しかし、最期を迎える患者が求めるのは財前のように自信満々な医師ではなく、清一のように悩んでくれる医師であり、「私」のように人知れず泣いてくれる医師ではないだろうか。
 人は皆、一人で生まれ、一人で死ぬという。だが現代に生きる我々は実は一人では死ねない。家族に助けられ、医師に看取られて一生を終える。動物のように山奥でひっそりとカッコよくは逝けない。だから、最期の主治医は我々にとって、とても大事な存在なのだ。最期の旅の随伴者を探している全ての人に、自信をもって本書をおすすめしたい。

 (いのうえ・ゆみこ 脚本家)

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