書評・エッセイ

2013年10月号掲載

『ハルモニア』刊行記念特集

天才と凡人の音楽(ハルモニア)

――鹿島田真希『ハルモニア』

佐々木敦

対象書籍名:『ハルモニア』
対象著者:鹿島田真希
対象書籍ISBN:978-4-10-469504-1

 鹿島田真希は芸大の作曲科を目指していたことがあるほど音楽、特にクラシックに精通しており、過去にも『ピカルディーの三度』など作曲を題材にした作品を発表しているが、芸大をモデルにしたとおぼしき音楽大学に通う四人の音楽家の卵を描いた「ハルモニア」は、はじめて真正面から「音楽」を取り上げた小説である。
 スラブ系の血を引くハーフで、作曲科に首席で入学した「きみ」ことナジャ、本名加藤ナデジタ、歯に衣着せぬ物言いと面倒見の良さを併せ持つゲイの青年ルツ子、韓国からの留学生でピアノ科のイケメン、キム、そして二度の浪人を経てやっと芸大に入れた語り手の「ぼく」=トンボ。「ぼく」はナジャに恋をし、彼女は彼を翻弄する。あらゆる意味で彼女との差は歴然としている。天賦の才能を持ち、それゆえに他人の気持ちを忖度しない傍若無人な振る舞いの出来るナジャと、自分の平凡さを誰よりも自覚し、それでも地道に作曲家への道を歩みたいと思っている「ぼく」。物語はトンボの視点から、こんな四人の馴れ初めと、その後の顛末をテンポ良く語ってゆく。「ぼく」は、ついつい何でも音楽に変換してしまう癖がある。彼は頭の中で、ナジャとの行為や関係を音楽用語で描写する。この書法が実にユニークであり、何度も感心させられた。譜面の読める(書ける?)小説家、鹿島田真希ならでは、である。
 そう、何よりもまずこの作品は、非常に読みやすく、すこぶる面白い。ともすれば難解さを身に纏いがちだったこの作家が、芥川賞受賞前後から会得し、たとえば傑作『来たれ、野球部』に際立って示されていたのが、この語りの滑らかさだ。だがもちろん、それは単にリーダブルであるだけではない。初期作品に溢れていた魅惑的な観念性は、平易な言葉遣いと読者を飽きさせないストーリーテリングの裏に忍び込み、静かに、だが烈しくたゆたっている。
 持てる者と持たざる者の対峙を、通常よりもはるかに極端な、時には荒唐無稽とも思えるような設定を拵えて、なかば戯画的に描き出すというのは、鹿島田真希の得意技のひとつだと言えるが、この小説においては、音楽という紛れもない天才の存在する世界、努力や献身だけではどうしても追いつかない超絶的な境地のある世界を舞台とすることで、より鮮やかにされている。「ぼく」はナジャを、ルツ子を、キムを、そして自分自身を観察し、その行動と内面を描写し続ける。繰り返すが彼は自らの凡庸さをよくわかっている。だがしかし、絶えず凡庸さを自覚し続ける者はもはや単に凡庸なだけではあり得ない。
 たとえばキムの先輩で声楽科の中島さんという女性が出てくる。「ぼく」の作曲した声楽曲を彼女に歌ってもらう過程で、「ぼく」は中島さんの凡庸さと、彼女自身にとっての彼女の凡庸さを認識する。このエピソードは明らかに重要な意味を持っている。読者はもしかして「ぼく」は中島さんを好きになるのかもと一瞬思うが、そんなことはない。彼はやはりナジャを選ぶのだ。しかしこのことをいわゆるピュアで一途なラブ・ストーリー的にのみ理解しようとすると(そうしてもいいのだが)、鹿島田真希が描き出そうとしている真の主題を見誤ることになるだろう。
「文学というのは、特別でない人の救いになるために存在しているのだと私は思う」と、鹿島田真希はあるところで語っている。特別でない、持たざる者の救い。この発言は、しかしやはり単純に凡人への共感と解してはならない。この作家がやろうとしていることは、もっと厳格で残酷で、と同時に並大抵ではない慈愛に満ちている。
「ハルモニア」とは「調和」を司るギリシャ神話の女神の名前である。特別な人は確実に存在する。特別でない者も存在する。この二つの真理を転倒することは結局のところ詭弁にしかならない。これらをしかと認めた上で、しかし両者が出会うところにのみ「調和」が実現するのだと考えること。天才か凡人かは受け持つパートの違いでしかない。こうして「ぼく」の一種の成長譚である「ハルモニア」は、「文学」としての使命をまっとうする。そしてこの試みは「音楽」を題材にしたからこそ成功しているのだと私には思われる。

 (ささき・あつし 批評家)

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