書評

2013年10月号掲載

『沈むフランシス』刊行記念特集

精巧なロマンチシズム

――松家仁之『沈むフランシス』

山田太一

対象書籍名:『沈むフランシス』
対象著者:松家仁之
対象書籍ISBN:978-4-10-332812-4

 この小説の大きな魅力の一つは、北海道の四季の美しさである。
「牧場を覆う星は、見たことのないほどの数でひしめいていた。世界全体を圧するような耳を聾するおおきな音が天から舞い降りてくる光景を、黙ってひとりで見ているような錯覚に桂子はとらわれた」
 簡潔で油断のない文章で描かれる春も夏も秋も、とりわけ冬の世界はすばらしい。
 桂子は三十五歳である。東京での会社勤めと男との暮しを片付けて北海道へやって来た。中学のころ父親の仕事の都合で三年間北海道にいたことがある。
「アイヌ語の響きを残す地名が、桂子には泣きたくなるほどなつかしかった。(略)幌加内ホロカナイ音威子府オトイネップ苫小牧トマコマイ占冠シムカップ馬主来バシュクル阿寒アカン佐呂間サロマ真狩マッカリ
 とはいえ中学時代の友人知人に会いたいというのではない、地名は異郷の表象で、いまの生活を捨てたい、脱出したいという「泣きたくなるほど」の衝動が求めたドアのハンドルである。しかし、桂子はそのドアをすぐあけたりはしない。かつていた町から四十キロほど離れた町に非正規雇用の郵便局員の職を見つけ、東京で十三年勤めた会社に礼を失することなく辞し、それから漸く新しい土地に踏み出すのである。荒々しいところは少しもない。しかし、今までの給料に比べれば何分の一しかない配達業務である。
「東京で出会うのはほとんどがゆきずりの視線だ。ところがここではすべての視線に名札がついている。昨日の視線には、明日も明後日も出会う可能性がある。二度と出会わない、などということはまずありえない」
 それにわずらわしさではなく、生きている手応えを感じるのは、それまでの都会の生活がどのようなものであったかを語っている。配達先の老人から目が悪くなって手紙を貰っても読めない、読んでくれないかと頼まれる。読んでやる。「あんたは読むのがうまい」といわれる。家々の前で停車してはエンジンをとめ、川の音や木々の葉ずれの音を聞き、郵便物が箱に落ちる音に喜びを感じる。
 これはもう都会で生きる人の多くの頭をよぎる夢想の実現で、決して見せびらかすようにではないが、ほとんど官能的と呼びたくなるような魅力をたたえて自然や人々が語られる。
「安地内村は早くもすでに秋だった。赤や黄色に変った葉の匂い、早朝に見る吐く息の白さは、生きることよりも死ぬことを近しく感じさせる。冬に向かう秋が、桂子は好きだった」
 その桂子は「いい女」である。たぶん作者がこのような知性、感性、脅えと強さを持っている人を好きなのだと思う。それを体現している都会の女が北国の小さな村で一人暮しをはじめる。となれば、ここに「いい男」が現われなければならない。それも作者がこれが一番と思う男でなければならない。腕力の強い流れ者などというのではぶちこわしである。
 和彦が現われる。はじめは得体が知れない。無論そうでなければならない。
 それから彼の熱中していることの一つがさらりと開示される。招き入れられた和彦の室内には高度なオーディオ機器が納まり「女の趣味はひとつも見当たらない」。そこで和彦が傾注しているのは、趣味の一つの極北というようなものなのである。といっても性愛に類することではない。いや、軽く横すべり出来るものともいえるが――というぐらいにしておこう。
 そして、恋がはじまる。その恋のあれこれも無論この小説の楽しみである。行きずりの目ではない目があちこちにある。それを避けながらの逢う時を捜す味も都会からは失われたものの一つかもしれない。
 沈むフランシス? この話でどうフランシスが出てくるのだ、と思う人がいるだろう。
 そう。それがこの作品をただの恋物語にさせない大きな柱である。しかし、これも具体的にここであかさない方がいいだろう。決して幻想とか異物というようなものではない。むしろとても具体的で、だがそのまま詩でもあるというようなフランシス――。
 村に似合わない洗練された男女の恋は、いわばロマンチシズムに流れて個人的閉鎖的に流れがちだが、ここでは外にひらかれている。公共にひらかれているのである。桂子は郵便局で、和彦はフランシスで。
 ある深夜、村の灯りが一斉に消えてしまう。その時二人はどうしていたか。美しいラストである。とても先回りして私が書く気になれない。

(やまだ・たいち 脚本家・作家)

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