書評・エッセイ

2013年10月号掲載

なんとも愉快な体

――吉田篤弘『うかんむりのこども』

古屋美登里

対象書籍名:『うかんむりのこども』
対象著者:吉田篤弘
対象書籍ISBN:978-4-10-449103-2

 吉田篤弘さんはご自分のことを、「竹林に迷い込んだ馬」に乗って「弓を厶に向けて」引いている者、と述べています。厶は「私」の旁(つくり)と同じで、これは無に通じ、「消しても消しても、しつこくあらわれる自我=エゴ」と解釈する、と。
 名は体(たい)をあらわす、といいますが、なんとも愉快な体ではありませんか。この愉快な「体」によって紡ぎ出されたものが本書で、文字や言葉についてあれこれ考えたり、妄想したり、夢見たりしたことを、軽やかな文体で綴ったエッセイが二十四篇収められています。
 文字や言葉にまつわる文章というと、白川静や大野晋、高島俊男などの、深く考えさせられるエッセイを思い浮かべる人がいるかもしれません。でも吉田さんのエッセイは大空を舞う鳥のように、自由に文字の周りをとびまわっています。また、短篇小説のようなさわやかな香りと手触りのする章もあって、不思議な色合いに満ちています。
 たとえば、「文字を買う」という章。「ひさしぶりに、文字でも買おうかと思い立って、銀座に出た」吉田さんは、「もんじや」というお店に行きます(もんじゃ、ではありません。最初私はもんじゃと空目しました)。

「〈もんじや〉に並ぶ文字はいずれも無名の書き手によって提供されたものである。誰でもその気になれば、文字を売ることができる。ただし、評価は一律で、店が規定した買い値は大きな飴玉ひとつぶんくらいとされている」

 飴玉ひとつぶんの文字、という言葉がいいですね。そこで吉田さんは気に入った文字を、あるいはその日の気分を炙(あぶ)り出すような文字を選ぼうとするのですが、さまざまな文字を見ているうちにあることに気づきます。
 それは「字の向こうには必ず人がいる」ということ。
 文字は、その字がこの世に生まれてからの月日や人の思いや歴史、さらには伝えたい意思までもけなげに背負って存在している。そのことを、物語風に仕立てあげた章の中で静かにさりげなく教えてくれます。
 そういえば昔、日本語を習いに来ていたイギリス人に会ったとき、その青年がこう言いました。「カンジはいいですね。たとえばサンズイの字はみな水に関係があると学校で教わりました。たくさんのサンズイの字を見ていると、イミはわからないけど嬉しくなります」彼はイギリスの港町で生まれた人でした。
「キヘンも嬉しいカンジです。ヤマイダレ、ウカンムリ、モンガマエ」と難しい言葉を羅列したあと、彼は私にこう言いました。「ヒョウイモジは楽しいです」表音文字で生きてきた人の素直な感想だと思いました。
 でも彼の感想は、私が小学校で初めて漢字を習ったときに真っ先に思ったことと同じでした。漢字それ自体に意味があることを知ってから、世界がぐっと広がったように思われたものです。
 吉田さんはその「ぐっと広がった」様子を、大人の目でもきちんととらえていて、そこがとても愉快なのです。いや、もしかしたら、吉田さんはいまも小学生のように、新しいものを見る目を失わずにいるのかもしれません。
 本書には門構えについて書かれた章もあります。
「門前にて」は、「ふと、思い立って、門という字の前に立っている」という文章で始まります。吉田さんはよく「思い立つ」人のようです。そしてその「無防備な字」を前にして心が千々に乱れていく様子が綴られていきます。
 私はふと思い立って、この短い章の中に門構えの文字がいくつ登場するか数えてみました。六十六個でした。まさに遊び心満載の「門構え尽くし」の章です。
 さてここまでくれば、なぜタイトルが「うかんむりのこども」になったのかすでにおわかりでしょう。でも、吉田さんが本書の中で明かしていますが「字」はうかんむりではありません。では、どの部首に属するのか。
 本書を読んで確かめることをお薦めします。

 (ふるや・みどり 翻訳家)

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