書評
2013年11月号掲載
「ふたりのあなた」と「私」
――井上荒野『ほろびぬ姫』
対象書籍名:『ほろびぬ姫』
対象著者:井上荒野
対象書籍ISBN:978-4-10-130257-7
人は誰しも、多かれ少なかれ、他者に依存して生きているものだ。最近では「共依存」という言い方も一般化し、過度に密着し合う関係性の不健全さを指摘されることも多くなった(ただし、経済的な依存は別である。収入がなく、他者に依存して生活せざるを得ない場合の依存と、心の依存とは、限りなく似ているようでまったく異質なものだと私は考える)。
生まれたばかりの赤ん坊は母親、もしくは母親の役目を果たしてくれる他者に依存しなければ生きていけない。したがって、乳幼児のころに味わった絶対的な安らぎ、安心感は、私たちの中にしっかりと植えつけられ、生涯、消えずに残される。
そのため、たとえ大人になっても、人は常に心のどこかで、叶うならば誰かに依存したい、全面的に主導権を相手に託し、何も考えずに安穏と寄りかかって生きてみたい、とひそかに願うのである。つまり「永遠の母の代理」がいてくれればどんなにいいか、ということだが、ふつう、その代理役には、夫(妻)や恋人、もしくは周囲にいる心やさしい友人が選ばれる。そして、ふしぎなことに、強烈に依存したがっている人間には、依存させてやることによって自らのアイデンティティを満足させることのできる相手、というのが、かなりの頻度で出現するのだ。
そのため、依存を軸とするカップルは比較的簡単に誕生するし、その数も多くなる。互いに役割分担しながら友好的な関係を築くことができるのだから、それはそれで幸福なカップルと言える。しかし、その居心地のいい関係が永続するとは限らない。何かの事情で依存=被依存の関係を断ち切らねばならなくなった場合、そこに生じる絶望感は、計り知れないものになる。
井上荒野さんの『ほろびぬ姫』の主人公みさきは、まさにその、心の依存願望を体現する女性として描かれている。
十六歳の時に、両親を事故でいっぺんに失ったみさきは、斎場で両親の葬儀にいたたまれなくなって逃げ出し、泣きながら歩いていたところ、喪服姿の男に道を聞かれた。たまたま恩師の葬儀に参列するためにやって来たという、その年上の男に、案じ顔で「どうしたの」と訊ねられ、その男と肩を並べて歩き出した瞬間、孤児となったばかりの、よるべない彼女の依存先は決まったのだった。
物語は「ふたりのあなた」と「私」の、ほぼ三人の登場人物で進められていく。みさきの夫となった男には瓜二つの双子の弟がいて、高校の時に行方がわからなくなっていたのを後に夫が見つけだし、三人の奇妙な関係が始まる。作者はみさきに、この双子の兄弟をいずれも「あなた」と呼ばせる。「あなた」とみさきが呼ぶのは、夫でもあり、同時にその弟でもある。兄と弟は性格的に真反対なのだが、外見的にそっくりなのだ。みさきがそれぞれを「あなた」としか呼びようがないことを読み手は次第に理解し、ふしぎな世界に導かれていく。
だが、絶対的な幸福を約束してくれていたはずの夫は、治癒の不可能な死病にかかってしまう。みさきの心に生まれる動揺を読者はみさきと共に見つめながら、実はこの物語が、みさきと、みさきの愛する夫との満ち足りた依存関係にある生活に侵入してきた、夫にそっくりな「あなた」の物語ではなかったこと、みさきが愛してやまず、生命をなげうっても失いたくないと思っていたのは夫ではない、みさき自身の心であった、という冷やかな事実を冷たく突きつけられていることに気づく。
作者のその手さばきの妙に唸りつつ、本作を読み終えてみれば、恋において必要不可欠なのはあくまでも自分の恋心であり、その対象は実は誰でもかまわないのだ、という滑稽な事実があったことが思い出されてくる。みさきは夫に依存しなければ生きられなかったが、実は相手は夫でなくてもよかったのかもしれない。一番したたかだったのは、他の誰でもない、あれほど夫に依存していた、社会性の希薄な、少女のようなみさき自身だったのかもしれないのだ。そんなふうに読みといていくと、人の心のふしぎが仄見(ほのみ)えて、甘やかな戦慄に包まれていくのがわかる。
(こいけ・まりこ 作家)