書評
2013年11月号掲載
心のミストサウナ
――宇江佐真理『雪まろげ 古手屋喜十 為事覚え』
対象書籍名:『雪まろげ 古手屋喜十 為事覚え』
対象著者:宇江佐真理
対象書籍ISBN:978-4-10-119927-6
時代小説は、心のミストサウナだと思う。世知辛い世の中を渡って行くうちに出来た、心のささくれや、がさがさしたアカギレを、温かく包み込んでくれる。かさかさに乾いてしまった心に、しっとりと潤いを与えてくれる。時代小説を読むことは、「心がひとっ風呂浴びる」のに似ているのだ。
本書は田原町二丁目に古着の見世「日乃出屋」を構える喜十を主人公にした「古手屋喜十 為事覚え」シリーズの二作目だ。喜十の店に出入りしているのが、北町奉行所隠密廻り同心である上遠野〈かとの)平蔵(隠密廻りなので、変装をしなければならず、上遠野は喜十の店で衣装を調えている、という設定だ)で、上遠野が持ち込む事件のとっかかり(故人が身につけていた着物とか、古着や「布」がらみのことども)を、喜十が調査して、事件の謎を解いていく、という捕物帳としての大筋のベースはあるものの、宇江佐さんが描く他のシリーズ同様に、物語の醍醐味は捕物ではなく、事件にまつわる謎に絡まる人々の人情話にある。
さらには、主人公である喜十とおそめ夫婦のドラマが、本書のもう一つの柱だ。前作では、連れ添って七年になるというのに、子宝を授かれずにいた喜十とおそめが、「日乃出屋」の前に捨てられていた赤ん坊を拾ったところで終っていたのだが、本書は、その赤ん坊を巡るドラマで幕を開ける。赤ん坊を置き去りにしたのは誰なのか、そこにはどんな事情があったのか。この冒頭の一編を読んだだけで、前作を読んでいない読者でも、ぐいぐいと物語に引き込まれてしまう。「小説新潮」で連載していたこともあるだろうが、その辺りの塩梅は、まさに手練の感がある。
「わけあって、すてきちをおいてゆきます。よろしくおねがいします」という一筆とともに置き去りにされた赤ん坊は、そのまま「捨吉」という名で、喜十夫婦の養子になるのだが、そこに至るまでのドラマが、切なくもしっとりと読ませる。同時に、それまで夫婦二人きりの暮らしに、赤ん坊が加わる事で、夫婦、ではなく、父親と母親、になっていく喜十とおそめのドラマが本書の土台になっている。
収録されている6編、どれもそれぞれに味わい深いのだが、なかでも「鬼」がとびきりだ。酷い皮膚病を患い、肌が「鮫肌」のようになってしまっているひとり息子とその母を巡る物語で、その息子の心に巣くった「鬼」を描いているのだが、中に喜十のこんな言葉が出て来る。母親は、我が子を庇うあまり、鬼になってしまうことがあるし、鬼になるのは我が子だけとは限らず、心底惚れて尽した相手に背かれたら、殺したいほど憎くなるのよ、というおそめの言葉に、喜十は言うのだ。「そいつはおなごに限らねェよ」と。男の悋気だって、相当に凄いものだ、と。そして、続けて言う。
――皆それぞれ、胸ん中に鬼を抱えているってことだな。鬼が顔を出すか出さないかは、その人間の器量次第なんだろう
この喜十の言葉が、胸にずしりと響くのは、先日三鷹で起こった女子高生殺害事件が思い浮かんだからだ。別れを告げられた交際相手の男が、逆恨みで女子高生の首を刺して、殺めてしまった事件。人の命を奪った男の心には、確かに鬼がいたのだろう。そして男は、自らの鬼を御することができなかったのだ。喜十は一介の古手屋だけど、人が生きていくうえで、いっとう大事なこと、自分が抱える鬼は、自分にしか始末出来ないのだ、ということを、しっかりと弁えているのだ。こういうところが、本当にいい。とはいえ、そんな喜十を、「ただの善人」として描いていない(捨吉を扱いあぐねたり、おそめと時にはぶつかったり……)ところも、またいい塩梅だ。
本書の最後に収められた「再びの秋」では、捨吉の兄である幸太も引き取ることになった、喜十夫婦の顛末が描かれている。本シリーズはまだまだ続きそうで、そちらも楽しみだ。
(よしだ・のぶこ 書評家)