書評

2013年11月号掲載

誰もがゴローを捜してる

――梨木香歩『冬虫夏草』

熊谷栄三郎

対象書籍名:『冬虫夏草』
対象著者:梨木香歩
対象書籍ISBN:978-4-10-429909-6

 主人公は犬のゴローである、という捉え方もできるのではないか。前作『家守綺譚』の続編『冬虫夏草』を読み終えるころ、そう思ってしまった。前作では狂言回しのようにも思えたゴローなのに、である。それでもし綿貫征四郎が気を悪くするのなら、征四郎を表の主人公、ゴローを陰の主人公と表現してあげてもいい。とにかく私は、茶色で中ほどの体格とおぼしきゴローが好きだ。
 頃は百年ほど昔。征四郎は滋賀とも京都ともつかぬ地で、亡き学友・高堂の実家の家守として物書き生活をしている。庭の池に河童や人魚が流れ着き、サルスベリが征四郎に恋をし、掛け軸の中から高堂が現れたりする屋敷である。人と動植物の境も、時空の境も、幽明の境も無いが如き世界がそこにある。
 その庭からふと飼い犬ゴローが姿を消し不在が二ヵ月にもなったことから物語の本格的な展開が始まる。ゴローはいわば出奔常習犬で、しばしば行方不明になるのだが、今度ばかりは不在が長すぎる。
 そこで友人の菌類研究者・南川や高堂らの示唆を受けた征四郎がゴローを鈴鹿山脈の最奥部・茨川(いばらかわ)へ捜しに行く話となる。茨川は実在の渓流であり、山人たち数戸の集落(昭和三十八年に廃村)の名でもある。
 ここで評者たる私のことを少々。エッセイストより似非(えせ)イストと記したら実像に近いが、正体は名人級(?)のイワナ釣り師。じつは茨川はその私が通いつめたイワナの根源地なのだ。ここは奇妙な山地だ。野営すれば奇天烈な夢を見る。私は、人類と魚類の中間体という生き物を釣り上げた夢を見たことがある。
 また住人だった矢木源左衛門という魔法使いが幕末、蛤御門の変で召集されたとも伝わる。声で飛燕を落とせたとか。著者が物語世界を凝縮する場として、奇しくもこの茨川を選んだことに私は敬意を表したい。
 征四郎の目的は二つ。ゴローを捜し出すことと編集者の山内が教えてくれたイワナ夫婦が営む宿に泊まること。八風(はっぷう)街道、惟喬(これたか)親王、木地師(きじし)など歴史上知られる事物も登場させながら、鈴鹿の奥へと物語は進む。
 やがて征四郎は、生命現象など種々の事象が、厳然とあるはずの境を越えてしまう世界を見ることになる。かつて人であったイワナ夫婦や河童族らしき少年等々。そういえば『冬虫夏草』という題の象徴的なこと。
 漂う怪しさは、境を越えたり行き来したりすることから生じるらしい。それを楽しむうち私は初期化という言葉を思った。境が出現する前の生命や細胞や言葉、文体などの。
 境を越える力は想像力であろうが、本書ではユーモアの力も大きい。例えば征四郎が隣家のおかみさんにムジナとタヌキの違いを問うと、ムジナは教養がない、とおかみさんがきっぱり答えたくだり。何度読んでもおかしいから、ここをばらしても、今から読む人の感興を削ぐことにはなるまい。やっと会えたイワナ夫婦の珍妙な顔の描写も笑える。
 それにしても、征四郎がゴローを捜せば捜すほど読者の心に、姿を見せないゴローの存在感が増してくるのが興味深い。ついには私自身もゴローを捜していることに気づくのだ。私は思い出す。イワナ釣りで幽谷をほっつき歩いていたとき、自分が何かを捜しているという感覚に常につきまとわれていたことを。あれは結局ゴローを捜していたのか。
 いやまて、私だけでなく、ひょっとしたら誰でも半ば無意識に自分のゴローを捜していることがあるのではないか。そのゴロー自身も懸命に何かを捜し回っているような気はするが。いったい私たちは何を……。なんか、すごく普遍的なもの、境の向こうにあるかもしれぬ神のようなものをか。
 さて、喜ばしい結末が待っていてくれた。茨川で征四郎とゴローは再会できたのだ。が、めでたしめでたしとカタルシスに浸っていていいものか。だって今後、偉大な出奔常習犬が征四郎と安穏に暮らすことに満足するであろうか。おそらく家出を繰り返し、さまざまな境をくぐり抜けようと旅を重ねるに違いない。そんなゴローを見守る著者も今、あるいは旅のトランジットにあって、再びゴローを野に放つ日を夢想しているのかも。
 この物語、カイゼル髭の男にしろ、イワナ夫婦にしろ、カワウソを祖父に持つ長虫屋にしろ、牛蔵(うしぞう)少年にしろ、どいつもこいつも怪しい。著者も、ちょっと怪しい。評者の私は、ほとんど怪しくない。

 (くまがい・えいざぶろう エッセイスト)

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