書評

2013年11月号掲載

この世のすべての出来事の、圧倒的な一回性

――ジョン・アーヴィング『ひとりの体で』(上・下)

江國香織

対象書籍名:『ひとりの体で』(上・下)
対象著者:ジョン・アーヴィング著/小竹由美子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-519115-3/978-4-10-519116-0

 まったくもって、めくるめく。言葉がやってのけるのだ(小説においても、人生のある局面においても)と、たぶんここには書いてある。「鴨はどうなるの?」にしても、「アダージョ」にしても、「十七で懐かしくてたまらないんなら、たぶんあなたは作家になるわ!」にしても。
 でも、まず、概要。一九四二年生れの作家の「私」(「今では六十代の後半、ほとんど七十だ」)が過去を回想する形で、物語は語られる。進んでは戻り、戻っては進み、あっちへ飛びこっちへ飛びして、すこしずつ。
 回想の中心となる場所は、アメリカ、ヴァーモント州の小さな町だ。その町には図書館があり、主人公ビリーは少年時代にそこで、「ミス・フロスト」という瞠目すべき司書と出会う。彼女によって書物の森に誘われ、同時に、「彼女とのセックスを夢想」する。その町にはアマチュア演劇クラブもあり、ビリーの家族は祖母以外みんなそこの、熱心かつ中心的なメンバーだ。ビリーも、だからそこでたくさんの時間を過ごす。そしていろいろ垣間見る。近所の人たちが無防備に露呈する内面を、自分の家族のいつもとはべつな顔を、つまり世間を。
 町にはもちろん学校もある。母親の再婚相手であり、「常套句の権化」でもあるリチャードが英語英文学を教えているその学校で、ビリーはさまざまな少年たちに出会う。「トム」や「トローブリッジ」や「キトリッジ」に。読んだが最後、忘れられなくなるであろうこの少年たちの、何て生硬でナイーヴで、不恰好でみずみずしく、残酷で、あたり前に特別なことだろう! 私は彼らの学校生活を垣間見られてよかったと思う。興味深くも痛々しい一時期を。
 ところで、ビリーには軽い発音障害と、女性のみならず男性にも性的に惹かれてしまうという悩みがある。しかも、女性に惹かれる場合も、同世代の女の子たち(たとえば親友のエレイン)にではなく、母親ほども年の離れた大人の女性に惹かれてしまう。
 これは性をめぐる小説で、当時禁忌とみなされていた、同性もしくは両性愛者に対する、善良な人々の不寛容をめぐる小説でもあるのだが、その不寛容で善良な人々のなかには、当事者たちも含まれる。というか、当事者たちこそが、まっさきに自分の不寛容と直面する。
 そして、でも、図書館には本が、演劇クラブには芝居が、学校にはレスリングがあって、世界は物語に満ちている。彼らの日々には家族がいて友達がいて、その後はもちろん恋人(たち)もできる。別れがあり、再会があり、時の流れがあり、戦争があり、エイズがあり、変化があり、この世のすべての出来事の、圧倒的な一回性がそこにはある。読んでいてめくるめくのは、その一回性のためなのだろう。
 なんといってもすばらしいのは、汁気たっぷりの登場人物たち(そしてディテイル。そして言葉)。演劇クラブの「女優」で、いつも観客を沸かせる「お祖父ちゃん」や、「もっとも美しい体のレスリング選手」であり、全編を通して強烈な存在感を放つ「キトリッジ」(「彼の陰茎は右腿に沿って曲がる傾向があった、というか、異常なほど右を向くように見えた」)。ビリー同様に発音障害があり(彼は時間(タイム)という言葉を口にできない)、のちにビリーとヨーロッパ旅行をする、やさしい「トム」。少年ビリーのポケットや靴のなかに、しょっちゅうスカッシュのボールを隠しては見つけさせ、「ああ、そのスカッシュボールをあちこち探していたんだよ、ビリー!」と言う「ボブ伯父さん」。「舞踏室みたいじゃない」ヴァギナの持ち主で、ビリーの親友の「エレイン」。彼女とビリーの関係は、この小説を貫く光だ。「僕は君のヴァギナ、大好きだよ!」たとえばビリーが彼女にそう言うときの、言葉のまっすぐな届き具合はうらやましいほどだ。ビリーは彼女と何かしようとしているわけでは全然なく、ただ事実として、文字通りの意味で言っているのだが、女性にそう言える男性は滅多にいないし、男性にそう言ってもらえる女性も滅多にいない。
 おもしろかったー。
 文字通り、心からそう思う。

(えくに・かおり 作家)

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