書評・エッセイ

2013年11月号掲載

死を生きる

――荒木経惟『死小説』

荒木経惟

対象書籍名:『死小説』
対象著者:荒木経惟
対象書籍ISBN:978-4-10-380010-1

『死小説』たって、別に遺書というわけじゃないよ(笑)。自分が癌になったり、3・11があったり、確かに直接的な「死」が身近にあったことは確かだけど、でもそんなことを意識する前から――もしかしたら生まれた時から――「死」は私の中に染み込んじゃってるんだよね。「小説家」として言うなら、「死を生きてきた」。
 死に惹かれるというのは、確かにある。死というのは、どんな時でもドラマチックだよね。昔、昼間っから日が落ちるまで、お寺の墓地でずっと一人、枯れていく彼岸花を撮ったことがある。「朽ちていく」とか「消えていく」とか、そういうものに惹かれるというか、要するに未練がましいんだよ。
「死を生きる」というテーマを小説で表現するとき、小説家は主人公の心情を時の流れに沿って言葉にしていく。私はそれを写真でやってみたかったんだ。昔から写真集のタイトルに「小説」はよく使ってきた。『写真小説』、『小説ソウル』……『断腸亭日乗』にならって『包茎亭日乗』なんてのもある。小説とか日記とか、そういうのを写真でやってみたいという気分はずっとあったんだ。
 一枚の写真で一語、一行を語る。一章でもいい。今回は二〇九枚の写真を、撮った順に並べただけ。編集だとか、構成だとか、デザインだとか、そんなことはいっさいなし。撮った順の流れ自体に、ドラマというか、物語があったから、そこにストーリー、つまり「小説」が生まれた。「時代」って言ってしまうと大げさだけど、その時その時に起こったことを連ねることが、「時の持続」なんだ。その流れは、最初の『センチメンタルな旅』から始まって、今も続いている。「センチメンタルな旅」はまだ終わっていないんだ。
「流れ」は、自分で決めるものじゃなくて、大げさにいえば神が決めてくれること。「次はこういう女の人が登場してくれるんだよ」とか、「この女は去っていくぞ」とか、小説だと作家が考えて書いていくでしょう。でもそうじゃなくて、誰かに決められたものを、私がなぞっているだけ。だから「創作」というよりは「翻訳」だね。人と人との関係とか、時代との関係とか、それがどうなったということじゃなくて、その時のそのままの姿。私は、基本としては何か感じたらシャッターを押す、考えるな、っていう主義だから。あとは、この「神の指」に頼るだけ。写真機で歪曲しちゃダメなんだ。そのまんま即、写す。
 今回は、雑誌の隔月の連載でやったのが、案外よかったのかもしれない。二ヵ月に一回、その流れに従って、時がストーリーする、というか小説する、そういう感覚で膨らんだものなんだ。たった一ヵ月前、二ヵ月前の自分自身に触発されて続けられたことも、いい方向に導いてくれた。
 写真っていうのは、その瞬間に表現されちゃう。まず被写体を呼ぶ。写真家はワクワクするじゃない。それを撮ると、今度は「写真」がワクワクさせる。見る人をワクワクさせるんだ。だから「見せるとき」が写真家の「表現」なんだ。
 近頃はみんな一生懸命、見せるための工夫をするでしょう。写真集にする、写真展をする、アップする……そうするうちに、写真を加工したりして、現代アートってやつになっていってしまう。デジタルがそんな風潮に拍車をかけた。でも、そういうのじゃなくて、もう一度原点に戻って、被写体に出会ったときの最初のワクワクがそのまま写った「写真」というものを、私は見せたかったんだ。
 せっかくその時の面白いこととか、つまらないことがあったのに、編集して、意図的に流れを作ろうとか、結論を出そうとかしちゃだめなんだ。そのまんまだからいい。朝見る朝顔と夕方見る朝顔は違うでしょう。それくらい、単純なことなんだ。そこにもしストーリーや物語が生まれたとしたら、それは時代が、時が味方してくれたってことなんだろう。
 淡々と撮っていくしかない。それが私においては生きていることだから。それの報告しかない。私の場合、どうせ、考えてやってないからいいんだ。見る人によって、見る時によってストーリーが変わる。それでいい、それがいい。
 それにしても、この本、かなりいいよ! 帯に「芥川賞受賞(予定)」って載せたいね。(談)

 (あらき・のぶよし 写真家)

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