書評・エッセイ

2013年12月号掲載

『私のなかの彼女』刊行記念特集

シンプルな図式化を許さない圧倒的なリアル

――角田光代『私のなかの彼女』

中村文則

対象書籍名:『私のなかの彼女』
対象著者:角田光代
対象書籍ISBN:978-4-10-105832-0

 バブル期を大学で、その後の時代の移り変わりを社会で過ごしていく。その時代を体験した年齢は主人公と僕とでは十年ほど異なるが、きっとこのようであったに違いないと感じられるほど、その時代描写は巧みである。
 テレビなどで語られるのとは違う、本当のあの時代が小説から立ち現われてくる。そして作者はこのリアルな時代背景の上に、一人の女性の、というより一人の人間の「生のあり方」を圧倒的な筆力で出現させている。
 書評では本紹介も兼ねるため、何かしらの「図式化/まとめ」が要求される。例えば「○○な主人公は○○によって○○を目指し、やがて……」という風に。でもこの小説ではそれができない。登場人物達があまりにも、息遣いが聞こえるほどリアルだからだ。仮に一人の生きている人間の生き方を、このような短い書評で評したとしたら、必ずその人物の一部、もしくは表層をなぞることになる。人間というものは実際にはとても複雑だ。作者はその人間の欲望や思いの複雑さを緻密に、個の抱える矛盾も見事に含めながら表現している。ここに出てくる主人公は、そのリアルさにおいてまさに生きている人間そのもののレベルに達している。この筆力は何気なさも含め驚愕に値する。特に後半、母とのやり取りも含め作者の筆は容赦がない。後半からは一気読みをしてしまった。時に戦慄までも覚えた惹き込まれる読書だった。
 でも少しだけ骨組は書かなければならない。学生であった主人公の和歌はやがて作家になる。恋人の仙太郎は学生時代にイラストに言葉を添える仕事で既に有名になっている。主人公の祖母は作家的な存在であった事実が発覚し、そこには男性による抑圧と共に、祖母の師であった作家の存在もちらつく。血脈において二人の「作家志望/作家」に挟まれる形であった母の存在。仙太郎との関係には底辺に不穏さが漂うが、二人の関係は中々終わらない。微妙な糸のような不安定さで続いていく。しかしこのことも、単純な図式では語れない。二人の関係には常に「外的」な要因が影響し、事態は時代背景・タイミング・相互心理も含め複雑である。でもそのような複雑さを何気なく、読みやすく表現しているのは作者の力だ。複雑さを読者に気づかせないまま、でもその複雑さによって見事に物語を展開させていく。
 読みながら、仙太郎には苛立ちを覚えた。彼の仕事はまさに時代と共に消えていくもの。仕事のやり方にしろ子供のことにしろ、作家である恋人を手放しで認めようとしない抑圧的な何気ない言葉にしろ、この男は嫌な奴だと思い続けた。僕が最も嫌いなタイプの人間かもしれない。彼は恐らく、自覚のないまま世間の化物になっていくのではないだろうか。
 でも男性による女性への抑圧は、男性がそれに無自覚であることも多い。例えば今僕は仙太郎を批判することでさも「自分はわかってる」的な気分になっているけど、そんな安直な僕にも愚かな無自覚さが残るのが男女問題の常だ。でもこの小説は、仙太郎の人物設定でも図式化を許さない。仙太郎はただの無意識の抑圧者ではないからだ。
 彼は恐らく「自覚的に」ある電話をしている。あの電話の悪意は凄まじい。行為の悪に恐らく気づきながら、正当化の殻の中に隠し、自分をも欺き悪を成す。人は自身の行為に正当化の脈を見つける時、相手に非があると思った時(本当はなくても、そう思いたい時)より残酷になれるのである。
 この小説は、祖母の時代との対比から、男性社会の中で働く女性を描く、というジェンダー的なテーマのみでも語ることはできない。図式化を拒否する小説とは、つまりそれだけ生きている、リアルであるということだ。「才能を潰せるのは、その才能を持っているその本人だけだと」作中の言葉である。この小説の着地点を僕は美しいと思う。

 (なかむら・ふみのり 作家)

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