書評

2013年12月号掲載

思い出を生き直す

――ジョン・バンヴィル『いにしえの光』(新潮クレスト・ブックス)

川本三郎

対象書籍名:『いにしえの光』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ジョン・バンヴィル著/村松潔訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590105-9

 小説とは記憶だ。
 失なわれてしまったかけがえのないものへの愛着、思い出なくして小説はありえない。
 アイルランドの作家、ジョン・バンヴィルは前作『海に帰る日』で、遠い夏の日、海辺の町で過ごした子供時代の思い出を語ったが、新作『いにしえの光』でもまた、少年時代に恋した年上の女性のことを思い出す。
 初老の舞台俳優が、五十年も前、十代の頃に、友人の母親に恋をした日々を振返る。大人になり、結婚し、子供も生まれ、いま人生の秋になって、少年時代を思い出す。
 絶ちがたい思い出だったのはもちろんだろうが、この初老の主人公にとっては、いま、思い出すことが生きる証しになっている。大事な記憶があるから思い出す。それだけではない。思い出すことによって思い出が作られてゆく。実際の少年時代と、思い出され、脚色された少年時代の二つを生きることになる。
 時と場所は小説のなかで明示されていないが、一九五〇年代のアイルランドの小さな町が舞台のようだ。
 当時、十歳か十一歳だった「わたし」は、四月のさわやかな日、教会の前で、突然現われた、自転車に乗った女性に会う。まさに出現(エピファニー)だった。
 その時、風が吹いて彼女のスカートが舞い上がり、腰まですっかりむき出しになった。少年の「わたし」には鮮烈な印象だった。
 フランソワ・トリュフォー監督の第一作「あこがれ」の、あの白いスカートをはいて自転車に乗る大人の女性に憧れた少年のように、「わたし」は彼女に惹かれてしまう。
 彼女は、友人の母親だった。十五歳になった「わたし」は、彼女――、ミセス・グレイに、ある日、車に乗せてもらったのをきっかけに、思いを深めてゆく。
 コレットの「青い麦」にあるように、少年が年上の女性に導かれて大人になってゆく話はフランス文学の常套だが、このアイルランドの小説でも、少年の「わたし」はミセス・グレイに性の手ほどきを受ける。
 少年と有夫の女性の関係。無論、人に知られてはならない。二人は、森のなかで、古ぼけた廃館で密会を重ねてゆく。ただ、この逢いびきは「わたし」の思い出で語られてゆくから、ミセス・グレイがどういう思いだったのかは分からない。大人の女性の戯れだったのか、少年を大人にしようとする義務感だったのか。だから、初老の「わたし」は、五十年たったいま、もし彼女が生きているのなら会いたいと思う。

「わたし」は小さな劇団に所属する俳優だったが、ある時、舞台でセリフを忘れるという失態を演じ、引退を決意した。そこに、インデペンデントの映画会社が、映画への出演を依頼してきた。地味な映画だが、相手役はスター女優。「わたし」は映画に出ることにする。
 その現在と、少年時代が交錯してゆく。
『海に帰る日』では、子供時代に心惹かれた少女が海に消え、また、妻が癌と思われる病いで死んでいったが、『いにしえの光』もまた、死におおわれている。
「わたし」の娘は、頭がよく学者になったが、精神が不安定で、イタリアの海に身を投げて死んだ。まだ二十七歳だった。そのあと、妻の精神状態も不安定になった。
「わたし」が、少年時代の恋をいまになって思い出そうと努めるのは、娘の自死、妻の不安という現在の苦しさから逃れるためかもしれない。あの春の日、自転車に乗って現われたミセス・グレイの姿は、海で死んだ娘とは対照的に、輝かしい生の象徴になっている。

 近代小説のひとつの特色は、思い出を文学の大きな主題にしたことだろう。時間があまりに速く過ぎてゆく近代にあっては、過去と現代の連続性が失なわれてゆく。過去と断ち切られた人間は、なんとか自分の統一性を取り戻そうと、思い出にすがる。思い出し、時には思い出を作り直そうとさえする。
「わたし」は映画の仕事で知り合った、調査の仕事をしている女性にミセス・グレイのその後を調べてもらう。その結果、自分の思い出とは違った、もうひとつの過去が明らかになる。そこに死が関わっていることはいうまでもない。思い出はつねに死と共にある。

 (かわもと・さぶろう 評論家)

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