書評

2013年12月号掲載

喪失を荘厳する

――宇月原晴明『かがやく月の宮』

宇月原晴明

対象書籍名:『かがやく月の宮』
対象著者:宇月原晴明
対象書籍ISBN:978-4-10-433603-6

 最初にことわっておかねばならない。著者は自作について素直には語らないものだ。
 例えば、三島由紀夫は『豊饒の海』について、「『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語」であると註記した。しかし、半分しか真実ではないと僕は思う。もう一つの典拠に三島はあえて触れなかった。『竹取物語』だ。
『豊饒の海』は、『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語である以上に、『竹取物語』を典拠とした喪失を荘厳(しょうごん)する物語である。夢も転生も、ただ喪失を荘厳するために存在するのだから。
「月のカラカラな嘘の海を暗示した題」を冠し、月光姫と月修寺の聡子という二人の姫が雲間の月のごとく見え隠れするこの物語は、かぐや姫を失った帝の「逢ふ事も涙に浮かぶ我が身には死なぬ薬も何にかはせん」を本歌とし、その下の句を「輪廻転生も何にかはせん」と変えることで生まれたに違いない。
 そう、『竹取物語』こそ、三島が愛してやまなかった「存在しないものの美学」、「喪失が荘厳され、喪失が純粋言語の力によってのみ蘇生せしめられ、回復される」という試みを、最も早く、最も純粋に結晶化し得たのである。定家の「花ももみぢもなかりけり」という歌の心は、はるか昔に先取りされていた。
 輝く姫は失われ、姫の遺した不老不死の薬も失われ、後にはただ、荼毘の煙にも似た富士の煙だけが残される。「永遠にして女性的なるもの、我らを引きて昇らしむ」という『ファウスト』の結末がお気楽にしか思えない、永遠にして女性的なるもの、我らを置きて昇り去る徹底的な喪失。それを荘厳するために生まれた一篇が、本朝の「物語の出(い)で来(き)はじめの祖(おや)」(紫式部)であることの恩寵と呪縛。日本の言葉を使って物語るかぎり、誰もみな、かぐや姫に祝福され、同時に呪われる。『豊饒の海』がそうであるように。
 かくも月に憑かれて誕生した物語の宿命に思いを馳せ、同じく喪失を荘厳する『伊勢物語』の星々のごとき逸話や歌、『宇津保物語』の波斯(はし)国の消息、神話の欠片、史実の暗示、果ては稲垣足穂のキネマの月まで、古今も東西も問わず融合し、「かがやく日の宮」の物語である『源氏物語』へ、もう一つの『竹取物語』を立ち上げることができたら……と夢だけは大きく見たのである。我ながら、とにもかくにも七年間、夢だけは……。
 月は自ら輝かない。その光は、他からの輝きを反射し屈折したものだ。多くの文化で、月光は日光とは違う、狂気と蠱惑に満ち、穢れ腐敗した、偽りの病んだ光であるとされてきた。そんな月の物語にふさわしいのは、自らを恃み無から生まれたことを誇る独創の言葉ではなく、どこまでも他の影を帯びた本歌取り、見立て、取り合わせによる言葉だ。「文学の創作とは、我々が読んだものの記憶と忘却の混交にすぎない」とボルヘスのように嘯(うそぶ)き、陳腐な紋切型、退屈な遊戯、醜いキメラに堕すことも恐れない、反射と屈折を幾重にも畳み込んだ言葉だ。それはまた、狂言綺語や怪力乱神を語ること、つまり、幻想に舞い上がることを恐れない言葉でもある。そうした言葉だけが、喪失を荘厳できる。
『竹取物語』はお伽噺(フェアリーテイル)にすぎない。しかし、そのお伽噺(フェアリーテイル)がなければ、この国に物語は生まれなかった。『竹取』の幻想(ファンタジー)の裏打ちがなければ、『源氏』の現実(リアル)は生まれない。『竹取』の喪失を引き継がなければ、『源氏』はついに、平安のドン・ファンが繰り広げる宮中恋愛絵巻にすぎなかっただろう。
 三島は、『豊饒の海』第二巻『奔馬』で、三輪山の磐座(いわくら)のさまを「神が一度坐られたあとでは、地上の事物はこんな風に変貌するのではないかと思われた」と記している。『源氏物語』とは、その磐座のようなものだ。輝く姫が一度去ったあとでは、この国の物語はこんな風に変貌するしかなかったのではないかと僕には思えてならない。
 太陽が月を消すように、『源氏物語』は『竹取物語』を消してしまった。後世に様々な影響を与えたのは『伊勢』から『源氏』への系譜ばかり。あの王朝マニアの琳派にさえ、『竹取』をモチーフにした品を知らない。『宇津保物語』のごとく渾沌のまま忘れられたわけでも、散逸し失われたわけでもない。かぐや姫は誰もが知っている。しかし、本当に知っているのか。『竹取物語』は今もなお、月のごとく謎めいて、はるかな高みで独り煌々と輝いている。普遍にして孤独、それは幻想的な、あまりに幻想的なものの宿命であろうか。
『源氏物語』が誕生から千年を迎え、盛大に寿(ことほ)がれたのは数年前のことだ。拙作がどう受けとめられたとしても、千と百年あまりはこえたはずの『竹取物語』の誕生を寿ぐことだけは果たせた。そう信じたい。泉鏡花生誕から一四〇年、式年遷宮のこの年に。
 最後にことわっておかねばならない。著者は自作について素直には語らないものだ。

 (うつきばら・はるあき 作家)

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