書評・エッセイ

2013年12月号掲載

“型”より“動き”を

鶴見太郎『座談の思想』

鶴見太郎

対象書籍名:『座談の思想』
対象著者:鶴見太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-603736-8

 多弁な人、雄弁な人は必ずしも座談の名手とは限らない。見解なり思想なり、自身の構えを崩すことなく述べる人物は、座談の世界ではむしろ浮くことが多い。それでは逆に座談の上手い人とは、一体どんな思想像の持ち主なのか。確固とした思想を持ちながら、同時に相手の話を聞き、それに引き込まれる器量の持ち主――魅力的な人物像であるし、それを連ねていけば、ひとつの思想史が描けるのではないか。こんな感触をかねてから持っていた。拙著の主題は、かなり前から温めていたものだった。
 全体の構成も、冒頭で日本近代における座談について理想的なひとつの素材を提供した『三酔人経綸問答』を置き、次に『文藝春秋』において座談の独自性を打ち出した菊池寛を扱い、最後に丸山眞男ほか、座談の思想性を考える上で重要な群像を配する、という具合に早々と出来上がっていた。しかし、あらかじめ鋳型を決めてしまうと、それに合わせて書くのは意外にむつかしい。輪郭は思い描けているが、執筆は幾度となく中断することとなった。
 そんな折、拙著でもいくつかの章に登場する桑原武夫が大日本雄弁会講談社発行の『雄弁』を引きながら、自分が少年時代を送った大正時代、雄弁とは日本近代化の手段であり象徴だったとする文章に出会ったことが、或る見取図を与えてくれた。この中で桑原は、中学校時代に行なった演説会での失敗を紹介し、自分にとっては聴衆が「百人を越すと楽しみの要素は逓減する」として、自分は座談向きの人間であるとした(「思い出すこと忘れえぬ人」『文藝春秋』一九七〇年一月号)。
 大正・昭和戦前期に幾度となく出版された雄弁術の書籍が示すように、雄弁とは型の力に負う所が大きい。これに対して座談とは型よりも、相手の意見に反応しながら、自分の言葉を探す点で、常に動きを伴うものである。これに気付いた時、ようやく輪郭を裏付ける手応えを感じはじめた。
 その上でどんな座談を選ぶか。やはり、参加者の意見に「動き」のあることが選択の基準となる。そして中野重治、柳田国男をはじめ、これまで自分が別の文脈で論じてきた人物が多くの座談記録を残しており、しかもそれらは「動き」という点で、見るべきものが多かった。
 全体を通して書き終えてみると、これまで自分の素材としてきた人物がはからずも、座談との親近性を持っていたことに気付いたのは収穫だった。そこから考える時、桑原武夫に限らず座談を好んだ人物とは、「雄弁」という近代化を支えたひとつの価値観に居心地の悪さを感じ、それに代わる場を求めていたといえる。
 座を同じくすれば、気配とは伝わるもので、自分と同種の問題を抱えた人物と相対していると、おのずから話は弾んでいく。かくして座談の系譜とは、座を囲んだ者同士の思わぬ出会いによって積み重ねられていく。

 (つるみ・たろう 早稲田大学文学学術院教授)

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