書評・エッセイ

2014年1月号掲載

「歴史好き」という社会現象

野口武彦『明治めちゃくちゃ物語 維新の後始末』

野口武彦

対象書籍名:『明治めちゃくちゃ物語 維新の後始末』
対象著者:野口武彦
対象書籍ISBN:978-4-10-610548-7

 近頃、「歴史好き」を自称する手合いが多くなっているそうである。「歴史ファン」「歴史マニア」などはまあ尋常の部類として、「歴女」という新造語や動詞「レキシズル」の出現となるともう立派な社会現象だ。
 これらが、一昔前の受験教育で詰め込み・丸暗記専門だった「歴史」科目への反発に根ざしていることは、容易に察しがつく。ただ史実と年代だけが際限なく羅列され、みんな「退屈死」寸前まで眠気と戦った、あの責め苦を思い起こすのは決して一人や二人ではあるまい。
 だが様子を探ってみると、「歴史好き」のいわれは、たんに成長期に受けた歴史教育の反動だけではなさそうだ。人間を「歴史」に引き合わせる媒体が、昔とは違うのだ。歴史小説が愛好されているからというのも違う。もはや活字ではないのである。
 今日の媒体はテレビドラマの動く画像である。いわゆる大河ドラマのキャラクターや、劇画の主人公たちが直接人々の視覚に訴える。いま「歴史好き」たちの感興をそそっているのはもっぱら視覚媒体であるといえそうだ。
 何事にも良い面と悪い面がある。「歴史好き」隆盛のメリットは、先行世代が不幸にも背負い込んだ「歴史意識」へのしがらみを一切持たずに済んでいることだ。この世代は、たがいに相手をやれ「自虐史観」だの、それ「自己満足史観」だのと罵り合う、不毛な対立から一切自由である。爺さんたちの争いにはもうカンケイないのだ。
 デメリットの方は、ちょうどそれの裏返しである。この世代は自分たちがまだ手を汚していないが故に、というより、手を汚したという自覚がないままに、歴史をイイトコドリして「歴史ロマン」とか「歴史を自由に楽しむ」とか太平楽をいっていられるのだ。まさしく「無知は力なり」(ジョージ・オーウェル)なのである。
「暮らしの垢」という言葉がある。誰でも人間として生活をしている間には、小汚さとか小さな悪に目をつぶる処世術とか、ちょっとした家族エゴイズムとかで、そうそう純潔無垢ではいられないという意味だ。同じように《歴史の垢》ということが考えられないか。一国が生きのびるためには相当エゲツナイこともやらなければならないが、おおむねその方面には目をつぶってしまうような自己免罪のメカニズムが体内に仕込まれているかのような具合である。
 歴史は見世物ではない。世の中のすべてが「劇場型」化した昨今であるが、人間はいつまでもノーテンキな見物人ではいられない。いつか見物席と思っていた場所が歴史の現場と化して、新撰組の立場か維新の志士の側に立つかは成り行き次第だが、「歴史好き」の面々が現場に動員される日が来るだろう。歴史への強制徴用には容赦がない。
 その日に備えるために「大江戸曲者列伝」「幕末バトル・ロワイヤル」「明治めちゃくちゃ物語」の連作シリーズを書いたつもりである。

 (のぐち・たけひこ 文芸評論家)

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