書評・エッセイ

2014年2月号掲載

存在と非存在の押し合いへし合い

――小山田浩子『穴』

町田康

対象書籍名:『穴』
対象著者:小山田浩子
対象書籍ISBN:978-4-10-120541-0

 ちょっと前、ある人と二人並び、もはや終車もいってしまって人通りもなく水銀灯ばかりが光る暗い駅前商店街を歩いていた。そのとき、一台のタクシーが私たちの傍らを通過した。その瞬間、並んで歩いていた人が、呀っ。と声をあげたので、どうしたの。とたずねると、いま通り過ぎたタクシーの窓のところに女の人の顔が見えた。そしてその女の人は笑っていた。と言うので、そら女の人が乗っていたのだろう。と言うと、いや、そうじゃない。それなら横顔が見える筈だがいまは正面の顔、それも窓ガラスの外側にへばりつくように見えたし、また、その顔は平面的で異様に大きく、一般的な顔の二倍はあった。と言った。そんなおかしげな人間が現実に存在するわけがない。なら存在しないものがなぜ目に見えたのか。普通に考えれば、あたりが暗かった。タクシーは一瞬で通り過ぎたのでじっくり見て確認することができなかった。などを考え合わせ、背後に化粧品店の店頭に飾られたモデルの顔の写真が光線の加減でタクシーの窓に偶然に映った、などと考えるべきだろう。
 小山田浩子の『穴』という小説集の表題作、「穴」を読んで、小説のなかでそうした現実に存在しないものと存在するものが押し合いへし合いしているような小説だな、と思った。
 押し合いへし合いという以上、存在しないものは、もはや、右に言った女の顔のような幽かなものではなく、存在しないはずだが存在するもの、としてぶっとく現れる。それがどんな感じかと言うと存在するものが濃いうちは存在しないはずのものは薄く、気配のようだが、存在するものが薄くなってくると、存在しないはずのものが現実に存在するものとなって現れるのである。
 存在するものが薄くなるということはどういうことか。ひとつは目の前の田畑や家屋や看板や自動車といった自分の外にあるものが段々薄まっていくということだけれども、そんなことはあまりない。あったとしても眼病とかそういうことだろう。それに比して、もうひとつは、自分の内、または、自分自身が薄くなっていく、ということで、これは割とよくあることのように思える。
「穴」の語り手、私すなわち松浦あさひは非正規社員でその立場が正社員と比べてそもそも薄いが、夫の転勤に伴って離職し、田舎に住むことによって社会とのつながりを失ったように感じて、さらに薄くなっていく。松浦あさひはそれに抗う気持ちは持っているものの、それが生まれつき自分に具わった性質、自分が負った運命のようなものと思っているような諦めた感じがある。
 その松浦あさひの周囲で、現実の存在が薄くなったり濃くなったり、非存在が薄くなったり濃くなったりする。その根本の原因はいまも言うように松浦あさひ自身の薄まりであるように思う。
 そして押し合いへし合いをしている以上、土俵にはどちらか一方しか残ることができず、残った方が現実の存在であるので、話が進むうちにどちらが現実の存在でどちらが非存在かも決められなくなる。
 ところが、小説には動かないものが配置されている。それは、松浦あさひの住む家の近くを流れる川である。川の表面は太陽光の向きや風向きによって見え方が変わり、また、川を流れる水は、見た目の形は同じでも、一瞬前の水とは違う水、なんとなれば水は川上からがんがん流れてきて川下にがんがん流れていくからだが、川そのものはずっと川である。といって私にはこの川が、人の命の流れであるように思える。そしてその川と道の間の草むらで松浦あさひは川に近づけない、存在しないもの、存在しないはずだったもの、或いは、存在しがたかったものの掘った、穴、にはまるのである。
 なぜこれらのものは、穴、を掘るのか。それは治水というのにはあまりにもささやかな、しかしそうとしかいいようのない、川の流れ、に対する文学的治水工事ではないかと私は思う。それが水の流れにはなんの影響も及ぼしておらず、ただ薄まっていく者がはまるためだけの穴であったとしても。
 昆虫の足の下で潰れる感じ、ムカデの厭な感じ、とか、耳がひらひらの犬の顔のスリッパとか細かいところが渋く、それらがあるかないかわからないものを、どちらの側にあったとしても根底から支えている、と思った。激烈によい小説であると思った。

 (まちだ・こう 作家)

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