書評

2014年2月号掲載

作者に異議申し立て(?)を行う何人かの登場人物

――ポール・オースター『写字室の旅』

高橋源一郎

対象書籍名:『写字室の旅』
対象著者:ポール・オースター著/柴田元幸訳
対象書籍ISBN:978-4-10-521716-7

 ルイジ・ピランデルロの現代劇の古典『作者を探す六人の登場人物』には、文字通り、自分たちを途中まで書いて放棄してしまった「作者」を探す六人の登場人物が、他の劇を稽古している舞台の上に登場する。この劇で面白いのは、なんといっても、もともと舞台の上にいて、「実在」していることになっている「演出家」や「俳優」より、虚構の存在であるはずの「登場人物」の方が生き生きしていることだ。「自分たちの『生』」を、生々しく描いてほしい、というか、中断された物語を完成させてほしいと懇願する登場人物たちの迫力に、「実在」の「演出家」や「俳優」は圧倒される。あんたたちの要求にすべて応えるなんて、現実の舞台では無理だ! 観客には耐えられませんよ! なにしろ、現実には約束事がたくさんあるんですから。……これが、現実に属している「演出家」や「俳優」の言い分だ。だから、この古典を読んでいると誰だって、「現実」の方が嘘くさく、「虚構」の方にこそリアリティ(や「生々しさ」)があると感じられてくるのである。
 しかし、ピランデルロの、この作品で一つ不満があるとすれば、この放浪する「登場人物」たちの製造責任を負うべき「作者」が出てこないことなのだ。残念ながら、「登場人物」たちは、「作者」を発見できなかったのだ。
 オースターの『写字室の旅』は、簡単にいうなら、「作者」を探す「登場人物」たちが、ついに「作者」を見つけて、監禁してしまう、という物語だ。
 冒頭、老人がベッドの縁に座って、床を見つめている。老人は記憶を失っていて、自分が誰で、なぜ、そこにいるのかわからない。部屋には、なぜか、いくつかの物にことばが書かれたテープが貼ってある。テーブルには「テーブル」、ランプには「ランプ」。その老人は、それぞれの物の名前がもうわからないのかもしれない。それから、マホガニーの机があって、そこにはなにかが印字された紙と「さまざまな年齢と人種の男女を撮影した白黒の肖像写真」の山がある。当然のことながら、その写真と紙を、老人は探りはじめる。老人の名前は「ミスター・ブランク」。
 さて、読者である我々は、あっさり、その写真の山が、ミスター・ブランクが、過去に書いた小説の登場人物の写真であることがわかる。それから、もう、一つ、ミスター・ブランクが読まされることになる紙が、どうやら、なにか物語、もしくは「小説」の一部であるらしいことも。ということは、もしかしたら、その「小説」は、ミスター・ブランクが書いたものなのかもしれない。
 そして、そのミスター・ブランクの下に、電話がかかり、彼を世話している女性たちが登場し、ついには、他の男たちもやって来る。彼らは、様々なことを、ミスター・ブランクにほのめかす。どうやら、彼らこそ、ミスター・ブランクが作り出した登場人物たち(の一部)であった。その登場人物たち(「そこ」には登場しない「登場人物」たちも含めて)は、ミスター・ブランクに、なにやら不満を抱えていて、そのために、このような仕儀に及んだことも……これが、この『写字室の旅』の「あらすじ」ということになる。ここに出てくる(実際に登場したり、名前のみ登場したり)のは、みんな、オースターの作品の「登場人物」たちだ。『最後の物たちの国で』のアンナ、『ガラスの街』のスティルマン父子、『幻影の書』のデイヴィッド・ジンマー、『鍵のかかった部屋』のファンショー(!)、『オラクル・ナイト』のジョン・トラウズ、等々。オースターの小説のファンは、彼らが登場する度に、「オッ」と思って、かつて読んだ物語の断片や感覚を思い浮かべるだろう。
 けれど、解説で訳者の柴田元幸さんが書いているように、オースターの小説を読んだことがない読者にも、オースターを読んだことがある読者とは少し異なった、けれども、本質的に同じ感覚が味わえるように思う。いや、ぼくは、オースターの小説を読んだことがない読者こそ、この小説をほんとうに味わえるような気がしている。そのような読者こそ、一度も出会ったことのない「登場人物」たちの悲哀に強い共感を覚えるのではないだろうか。
 ぼくも、いつか、「登場人物」たちがやって来て、この小説のように、作者であるぼくに異議申し立てを行う日が来るのではないか、と想像する時がある。「登場人物」は、ぼくが、恣意的に作り出した存在ではない(ような気がする)。彼らには、作者にも棄損できない自由があるのだ。けれども、作者(である我々)は、自分でも止めることができない思いにかられて、彼らの運命を強引に決定しようとする。「他者」を、なにかの目的のために使おうとする。人間が他の人間に対して行うなら「罪」であるのに、作者が、自分の作り出した「登場人物」に対して行うことは「罪」にならないのか。いや、「登場人物」に対してそれを行う者は、いつしか、自分の冒す「罪」に鈍感になるのではないのか。
 物語を作り出すことの深奥にある、この問いに向かって、この作品は書かれている。そう、なお付け加えるなら、そのように責められ、記憶を失ってもなお、ミスター・ブランクは、目の前に置かれた「新作」を書き続ける「運命」にあるのだ。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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