書評

2014年2月号掲載

人生で一番、幸せなこと

――藤岡陽子『手のひらの音符』

重里徹也

対象書籍名:『手のひらの音符』
対象著者:藤岡陽子
対象書籍ISBN:978-4-10-120561-8

 藤岡陽子の小説を読むのは、これで五冊目になる。一貫した特長がある。主人公たちが必死で生きていることだ。
 人は何のために生きるのか。本当の幸せとは何か。人生を意味づけるものはどういうものか。彼女の作品群が真正面から繰り返し読者に問いかけ、愛すべき主人公たちが何度も考え込むのは、そんな問題なのだ。
 随分と野暮ないい方だろう。アナログっぽいし、暗い感じかもしれない。「ちょっと勘弁してよ」「もう少し、オシャレないい方ないの」といった声が聞こえてきそうだ。でも、どうなんだろう。実は今、多くの人が心の底で思い迷っていることなんじゃあないだろうか。
 これと関連して、藤岡作品の特長をもう一つ挙げよう。この作家は「社会の片隅」に光をあてようとする。執拗にそれを続けている。「社会の片隅」といっても、不幸な人とか、恵まれない人とか、そういった意味ばかりではない。
 世間の常識や時代の空気に飲み込まれること。付和雷同して群れたがること。考えることを放棄して大勢に従うこと。そういうのではない生き方を追い求めていると、いつのまにか世の隅っこで生きていることに気づくのだ。
 こうもいえる。「社会の片隅」は誰の心の中にもあるものだ。メディアの垂れ流す物語に同意できない胸の片隅、周囲の人たちがやっていることがつまらなく見える時の心のしこり、顔で笑っても腹の中では早く家に帰りたいと思う時のつかえたような感覚。それが「社会の片隅」なのだ。
 挫折を経て看護師をめざす青春群像。戦力外通告を受けたプロ野球選手。父親を明らかにできない子供を産んだ新聞記者。夫が突然いなくなった妻。藤岡が書き続けてきたのはこういう登場人物たちだ。
 藤岡はつまずいたり、苦しんだり、悩んだりする彼らを低い視点から見上げるように描く。そこから何が見えてくるのか。人生で一番、大切なこと、楽しいこと、幸せなことはそこから始まるというのが、この書き手の思想だ。きっと作家自身も、「社会の片隅」で執筆を続けているのだろう。
『手のひらの音符』もこれまでの延長上にある作品だ。主人公はあまり経済的に恵まれない家庭に育った女性。彼女の四十五歳の現在と子供時代とを行ったり来たりしながら、物語は紡がれていく。
 主人公はある高校教諭との出会いから、自分の生きる方向を見いだすことになる。生きることの充実感というものを知るのだ。その道を懸命に生きて、今は服飾メーカーのデザイナーをしている。しかし、新たな難問に直面する。人生を階段にたとえれば、踊り場のような場所にいるのだ。
 二人の男性が登場する。一人は幼なじみ。彼も不運にめげずに、障害を持つ弟とともに真面目に生きている。ところが、不幸が続き、主人公と音信不通になっている。彼女にとってはずっと気になる存在だ。
 もう一人は中学・高校の同級生。この人も家庭に深刻な問題を抱えているのだけれど、ひたむきに前を向いて生活している。勉強もスポーツもできる優等生で、京大卒業後、京都市役所の職員をしている。
 ヒロインが十代を過ごしたのはちょうどバブル期になる。物があふれ、地価が急騰し、札束が舞い、多くの人が浮かれた時代だ。そんな時流と対比するように、藤岡は浮かれなかった三人の悩み多いがゆえの幸せを描こうとしている。
 逆にいえば、浮かれることの不幸を直視している。悩まないことのつまらなさを浮き彫りにしている。
 この物語はきっと、思い悩んでいる人を勇気づけ、壁に直面していたり、泥沼にはまっていたり、将来におびえたりしている人の背中を優しく押すことだろう。
 藤岡の小説の面白さの一つに、なにげない登場人物がとても魅力的なことがある。この小説で私がそう思ったのは、ヒロインが東京の服飾専門学校で出会う男性だった。彼は岡山県倉敷市の出身。ジーンズ会社の跡取り息子で屈託がない。主人公を好きになり、関係が深まるのだが、身の処し方を知っている。不思議と印象に残る人物で、こういったヤツと友人になり、酒でも飲みたくなったことを白状しておこう。

 (しげさと・てつや 毎日新聞論説委員)

最新の書評

ページの先頭へ