書評
2014年2月号掲載
山本周五郎と私
あの街のこと
対象書籍名:山本周五郎長篇小説全集第24巻『季節のない街』
対象著者:山本周五郎
対象書籍ISBN:978-4-10-113413-0
誰に言われるのかはさておいて、あの街に、「住みなさい」もしくは「住めるけどどうします?」と言われたら、どうだろうかと考えてみた。
あの街というのは、もちろん『季節のない街』の、あの街である。決して良い環境とはいえないけれど、たぶん家賃はベラボウに安いだろうし、変わった人たちがいるから、毎日、人間観察をしながら過していれば、題材の宝庫だし、街をうろつきながら、いろいろと見聞きすれば、おこがましくも、『青べか物語』のような作品が書けるかもしれないと思ってしまう。
けれども、『青べか物語』の街である浦粕は、人間がカラッとしているし、海があるから、淀んだ空気も抜けていくような感じがあるけれど、あの街は、どん詰まりで、空気が吹き溜まり、住人も浦粕に比べて業が深いような感じがする。
それに、あの街は現実がむきだしだから、住んでみると、自分が落ちぶれたような、惨めな気持になり、どうにもこうにも、やりきれなくなってしまいそうだ。そこで、わたしは、街の人たちと自分は違うのだという、イヤな感じの自意識がはたらき、これは人間観察であり、物語を作るためなのだと己に言い聞かせてみる。しかし、そもそも物語を作るために街に住んでいるということが無粋だし、いやらしく思えてきて、住人としては失格なのである。
また、街の人たちと関わると、いろいろ面倒くさそうで、本文には次のような説明がある。
『住人たちが極めて貧しく、殆んど九割以上の者がきまった職を持たず、不道徳なことが公然とおこなわれ、前科者やよた者、賭博者や乞食さえもいる』
こんな感じだから、もう正統派の貧民窟といっていい。
登場人物をみまわしてみると、寒藤先生に「ビスマルク」うんぬんとうるさく言われるだろうし、井戸端のおばさん連中に、「あの人は売れない小説を書いているらしいよ」とか「毎日、真っ昼間からうろうろして、なにやってんだろう、気味悪いね」などと噂され、島さんの奥さんに意味もなく文句をつけられ、走ってくる六ちゃんにぶつかりそうになったり、六ちゃんのお母さんの天婦羅を食べて胸焼けをして、猫のとらに襲われたりと、挙げたらキリがない。
しかしこのようなトラブルも題材になりそうだ。公然と行なわれている不道徳なところに潜入したり、よた者から、どうしようもない武勇伝を聞き出したりもしてみたい。
こんな風に、あれやこれや考えてみたけれど、あの街は、山本周五郎が作った架空の街で、いくら想像をしたところで、住人になることは無理なのである。
けれども、そんなことはわかっていながら、存在しない街に、住むのか、住まぬのか、堂々巡りの思考を巡らせているのは、作者が、あの街のことを、なんの衒いもなく、サラリと描いているようにみえるからで、地図上にある気がしてしまうのだった。
普通ならば現実感を持たせるために、執拗に細部を記したりするけれど、『季節のない街』の場合、細部よりも雰囲気の方がひしひし伝わってくるので、現実感が増している。
それに、作者が傍観者に徹しているため、人物から、ドロドロした観念や、悲壮感が漂ってきても、読者は、あまり気持が重たくならない。そればかりか、登場人物があけすけの無防備だから、のぞき行為とはいえないくらいの丸見え状態を、のぞいている感じだ。
けれども、あの街の実情は、悲惨な出来事や不条理な出来事が、たくさん転がっている。
電車好きの六ちゃんは、毎日、架空の電車を運転しているけれど、この愚直さはなんの生産性もないし、誰の得にもならない、笑う人、石をなげる人もいる、それでも走り続ける彼を見ていると、切なくなってくる。寒藤先生は、いろいろと威張りくさっているが、それは孤独の裏返しだ。
乞食のような親子は、とくに救いようがない。父親は理想の家を建てることばかり空想し、子供が物乞いをしているのだが、その子供は簡単に死んでしまうのである。
『九月のはじめのもっとも暑い夜、犬のハウスよりみすぼらしい小屋の中で、一週間ほど激しい下痢をしたのち、嘘のようにあっけなく子供は死んでしまった。』
死因ははっきりわからないとされているが、食中毒のようである。
ある日、寿司屋から残り物のしめ鯖をもらってきた子供は、寿司屋のおじさんから、火をとおして食べるように忠告されていたので、そのことを父親に伝えるのだが、久しぶりに、しめ鯖を美味しく味わいたかったのか、父親は「これはおまえ塩と酢でしめてあるんだ、これはきみ生ま物じゃないよ」と言って、「しめ鯖を煮たりなんかしちゃあ食えやしないよ」と子供の意見を一蹴してしまうのである。
その日の午後から、親子は具合が悪くなり、下痢がとまらなくなる。だが父親は、あれやこれや理由をつけて、これがしめ鯖の食中毒の症状であることを認めない。
三日目に、父親の症状は治まったが、子供はどんどん衰弱していく。それでも父親はしめ鯖の中毒を認めたくないのか、理想の家についての絵空事を語り続ける。ここで突然、作者が、父親に語りかけるような文章が差し込まれる。それは次のような文章である。
『彼は自分の腹がくうと鳴ったので、いそいで声を高くしながら、応接間の新しい構想について熱心に語った。
さあきみ、すぐにその子を抱いて医者へゆきたまえ、治療代のことなんかあとでどうにでもなる。とにかく医者へゆくんだ、そんな地面になんぞ寝かしておいてはいけない、すぐに病院のベッドへ移さなければだめだ。わからないのかきみ、手おくれになるぞ。
父親はのそっと立ちあがり、大きな欠伸をした。』
作者が必死に語りかけているのに、父親は欠伸をしている始末だ。まるで作者の意向を無視して登場人物が勝手に行動をしているみたいだ。
あたりまえではあるが、物語において、登場人物を生かすも殺すも作者しだいで、作者は神のような存在になれるのだけれども、山本周五郎は、あえてそれを拒否しているようにも感じる。
極端にいえば、作者であることも拒否しているようでもあり、「自分はべつに偉くはないんだ」もしくは「偉くはなりたくない」といったことなのかもしれない。このスタンスは、山本周五郎が、さまざまな賞を辞退したのに似ているような気がするのは、わたしだけでしょうか。
とにかく、作者が神になること、偉くなることを拒否しているから、変な教訓や、いやらしい心情を吐露することもなくて、そこが、ある意味、心地良いのである。そして読者と一緒になって、登場人物に「おいおい、なにやってんだ。どうすんだよ」といった感じで語りかけながら物語は進んでいく。
それから登場人物には、どうにもならないことばかりが襲いかかってきて、人間の、愚かさや滑稽さ、屈託が露呈してしまう。だが、山本周五郎は、そのような露呈した部分こそが、人間の魅力なのではないかと問いかけてくる。
そもそも人間の魅力とはなんなのだろうか? 一般的には、己をなげうって他人を助ける英雄や、無一文から事業を成功させる人や、これまで人間がなし得なかったことを達成する人など、成功者に魅力を感じるものかもしれないけれど、『季節のない街』では、そのような人たちはまったく登場してこない。そこに居るのは、屈託まみれの人間ばかりである。
山本周五郎は、そのどうしようもない人たちに、ユーモアや愛情を注いで、魅力的な人間を描いている。これは作者の心のひろさと、鋭い傍観者としての目がものをいうのだと思う。
さらに、いくら悲惨な出来事であっても、嘘くさいお涙頂戴ものにならずに、洒落た街や洒落た人間を描いているわけでもないのに、まったく野暮ったくならない。
逆に野暮な人ほど洒落たことをやろうとするから、山本周五郎は、ものすごく粋で洒落た人だったのだろう。
最後に、もう一度、あの街に、住むのか、住まぬのか考えてみた。そして、一ヵ月くらいなら住んでみるのも良いかもしれないと、日和った考えをする自分が、もの凄く野暮ったく思えてきました。
(いぬい・あきと 作家)