書評・エッセイ

2014年3月号掲載

『長女たち』刊行記念特集

長女たちは悲鳴をあげ、再生の道を探す

――篠田節子『長女たち』

間室道子

対象書籍名:『長女たち』
対象著者:篠田節子
対象書籍ISBN:978-4-10-148420-4

「うわあ、ホラーだ!」と震えあがった。編集の方に「医療小説、家族小説、ミステリなど、いろんなとらえ方ができる作品ですけど……」とゲラを渡されたのだが、これはホラーですよ。そして、通常のホラーはどんなに怖くても現実にはない。ゾンビはいないし地球外生物は襲撃してこない。サイコキラーに追い回された経験者が町内に三十人いた、ということはない。しかし本書に書かれていることは、もはやどこのご近所からもご家庭からも聞くことである。日常のホラー。ここまで書いて、ふと思った。私はこれの、何が怖いんだろう?
 タイトルどおり、収録されている三つの話の主人公はみな長女で、親の介護の問題を抱えている。一話目の母親は骨粗鬆症に加えて認知症が出始めているらしく、幻が見える。二話目の主人公は女医なのだが、父親を孤独死させた過去がある。三話目の母親は糖尿病なのに、食事制限を無視して甘い物を自傷行為のように大量に食べまくる。
 私はこれの、何が怖いんだろう? いつか自分の親もこうなるかもしれないこと? 介護で自分の時間が奪われること? 金銭的なこと?
 人間が死を怖れるのは、今まで生きてきたことが全部出てしまうからだと思う。本書はその見本のような作品で、生活していくのにサポートが必要になった状況の中、長年言えずにがまんしてきたこと、うしろめたさ、うぬぼれなどが、親の側からも子供の側からも全部出る。以前は仲がよかったかよくなかったかは関係ない。精神のタガがはずれた親たちは、「可愛がってやったのに、なぜこんな仕打ちをするのか」と娘をののしり、「あんたは昔から冷たかった」と罵倒する。長女たちも、過去に親が吐いた毒舌をひっきりなしに思い出したり、「友達母娘」の裏側にあった親の本心に憤ったりする。ひどく生々しいやりとりが、これでもかと書かれていく。
 父親や兄弟など、男たちも出て来るのだけど、彼らはものすごく現実的なことを言う。誰だって持病の一つくらいは持っている、完璧な健康などありえない、女の人のうつや共依存で実績をあげている精神科医を紹介しよう等々。
 主人公たちのくるしみは、そんなことでは解決しない。時に母親の代わりを、時に幻の長男の代わりを、期待され、背負わされ、感謝をされず、当然の権利のように振りかざされる。本書はこの国の長女という立場にあった者たちの、つもりつもった悲鳴の噴出なのだ。
 姑ならこんな思いをすることはない、と三話目の主人公は心の中で考える。長女たちは、実の親に見切りをつけることができない。「大人の自己責任」、これが通じないのが親なのだ。母親をこんなふうにしてしまったそもそものはじまり、ねじれてしまった孤独な心まで、長女たちは思いやる。それを察知するかのように親たちは娘の心も体もわが身の延長と見なし、離れることを許さない。肉親。肉の親。なんという存在感だろう。近親、親身、懇親など、親という字のつく言葉は「愛」にみちている。なんて怖いんだろう。
 ただ、彼女たちを救うのもまた、「常軌を逸したもの」だ。二話目の女医は、発展途上国での迷信や呪術の底しれなさにふれ、自分をかえりみる。一話目と三話目ではとことんまでぶっとんだ親のエゴや幻想が、ふと娘たちを正気にもどす。もしかしてこれが最後の、親からの愛なのか。
 怖い小説ながら、読後に満足感がある。不快で嫌で読むに堪えない話ではない。なぜなら、これは文学だからだ。
「現実はもっと悲惨だ」とか「ほんとうの介護はこんなもんじゃない」という人もいるだろう。でもたとえばここのところ、いとうせいこう氏の『想像ラジオ』、平野啓一郎氏の『空白を満たしなさい』など、「ポスト3・11文学」と言われる作品が登場している。未曾有のできごとのさなかで立ち上がろうとする人々が描かれているのだが、評するとき「実際の3・11のほうが悲惨だ」という言い方は当たらないだろう。それと同じで、介護や老後、親の死のくるしみや絶望感を、とにかく人に読ませるものに昇華する。それが文学だ。いま実際に介護をしている、していないに関係なく、ページをめくることが気持ちを前進させ、明日も生きていこうと思う。それが読書だ。その真骨頂のような一冊。

 (まむろ・みちこ 代官山/蔦屋書店)

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