書評

2014年3月号掲載

末っ子が「答え」を必要とするとき

――J・D・サリンジャー著 村上春樹訳『フラニーとズーイ』(新潮文庫)

柴田元幸

対象書籍名:『フラニーとズーイ』(新潮文庫)
対象著者:J・D・サリンジャー著/村上春樹訳
対象書籍ISBN:978-4-10-205704-9

 一九五一年、サリンジャーは長篇『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を刊行した。
 五三年には短篇集『ナイン・ストーリーズ』を、六一年には中篇集『フラニーとズーイ』を刊行した。
『ナイン・ストーリーズ』に収録された短篇の大半は、実は『キャッチャー』以前に雑誌掲載されているのだが、こうして出版順に並べてみるのは、ある点を考える上で都合がいい。すなわち、サリンジャーにおける、少女/若い女性の「成長」を考える上で。
『キャッチャー』では、十歳の無垢な妹フィービーが、インチキだらけの大人の世界に入っていこうとしている十代なかばの兄ホールデンを、(少なくともつかのま)癒す。
『ナイン・ストーリーズ』のなかの、「バナナフィッシュ日和」と並んでもっとも有名な短篇「エズメに――愛と悲惨をこめて」では、いい感じに自意識過剰な「十三歳くらいの」少女エズメが、二十代なかばの駆け出し作家が戦争で被った心の傷を、(少なくともつかのま)癒す。
 つまり、ここまでは、年少の女の子に男が慰められるという構図。が、『フラニーとズーイ』ではそうは行かない。
 今回、誰より慰めを必要としているのは、女の子の方である。成長して、もうホールデンの年齢も越えてしまった女子大生フラニーである。そしてこの元フィービーたるフラニーは、乱暴にいえば、ホールデンと同じ問題を抱えている。ひとの行動に、そして自分の行動にも、虚栄心の臭いを、あまりに敏感に嗅ぎとってしまうこと。エゴという言葉で作中言いあらわされるそうした人間の性癖に、ホールデン同様フラニーは我慢できない。エゴを持たない境地に彼女は憧れる。
 ホールデンはそうした境地を、妹のフィービーに――そして死んだ弟アリーに――見出せたわけだが、その妹が大きくなった人物フラニーには、もはやそういう「逃げ」は許されない。作品なかば、サリンジャーは、「七つか八つくらい」の女の子とその飼い犬のダックスフントがかくれんぼをしていて、「再会」を遂げた彼らのこの上なく幸福そうな姿を挿入している――あたかも、そうした無垢な日々に戻るのはもう不可能だと思い知らせるかのように(もっとも、苦悩するフラニーに、「年寄りの臭(くさ)いでぶ猫」のブルームバーグをなつかせているあたり、図式的にはやや不徹底な観があるのだが、たぶん随所でそうやって感傷的だったりユーモラスだったりする不徹底さが、小説をより豊かにしているのだろう)。
 代わりにフラニーがすがるのは、『巡礼の道』と題された、素朴な一農民による探求と伝道の旅を綴った十九世紀ロシアの宗教書である(これは実在する書物で、邦訳題は『無名の順礼者 あるロシア人順礼者の手記』)。だが、『巡礼の道』で提示されている、「イエスの祈りをひたすら口にすればよい」といった「答え」は、フラニーにとって有効ではありえない。『巡礼の道』の語り手は、神への素朴な信仰をはじめから揺るぎなく抱えている。過剰な自意識を抱え込んだフラニーが、そのまま見習えるはずもない。
 そもそも、複数の作品にまたがってサリンジャーが書いたグラス家七人きょうだいのサーガは、叡智と呼びうるものをたぶん誰よりも持っていた長兄シーモアが自殺する物語からはじまる(「バナナフィッシュ日和」)。ならば親はどうかといえば、父は娘が苦しむのを見ても「フラニーは蜜柑を食べたいんじゃないかな」くらいしか思いつかず(個人的には、それはそれで「いい人だなあ」と思うが)、母も小説上の存在としては実に生き生きしているけれど、やはり「答え」を持っているわけではない。要するに、長兄を欠いたグラスきょうだいは、「答えを持ってる奴にさっさと置き去りにされた」人たちであり、その意味では現代人全員の代表なのだ。
 フラニーとズーイは、きょうだいのなかでも末の二人であり、いわば答えからもっとも遠いところにいる。この小説ではその二人が、懸命に答えを探して苦悶している。最終的には、ズーイがかりそめの答えをフラニーに提示するわけだが、その答え自体の実際的な有効性を問うのは――要するに、これで本当にフラニーとズーイは救われるかと問うのは――あまり得策ではあるまい。「有効だ」という立場に立てばある種の「サリンジャー教」に陥る危険があるし、「有効でない」ことを重く見て小説自体の有効性まで疑ってかかると、答えを求めることの切実さも見失われてしまう。見事な訳文によって再現された活きいきした語りを通して、探求の切迫感を作品全体から体感する――まずはそれが、この小説への「正しい」入り方のように思える。

 (しばた・もとゆき 翻訳家)

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