書評
2014年3月号掲載
こんな小説群があっていいのか?
――ブライアン・エヴンソン『遁走状態』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『遁走状態』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ブライアン・エヴンソン著/柴田元幸訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590108-0
何篇もの傑作が収められているのだが、傑作が多すぎて、それらは傑作ではないような気がする。このような読後感がブライアン・エヴンソンの短篇集『遁走状態』を、ある側面からはひと言でいい表わしていると感じる。なんという奇妙さか。たとえばこの本では、「人と人とは理解し合えない」ということが、正確に理解できる。そして、「人は自分を理解しえない」ということが、正確に理解できる。しかしそれらは理解なのか?
この本に収められた諸篇は、かなりの割合で要点をまとめられない。そのバックグラウンドはわかりそうでわからない。真実はわかりそうでわからない。なぜ要点をまとめられないのか?
その理由はやすやす説ける。
必死に「要点をまとめよう」と試みているのが、大概、作品の語り手その人だからだ。読者は、語り手のその試みになんとか縋りつこう、齧りついていこうとする以外、手段がない。すなわち異様な読書体験である(異様にならざるをえない)。だが、それは難解ということでは全然ない。スリルがあるのだ。そして、スリリングすぎるのだ。読書とは「ひもとかれる未知」に飛び込む行為である。一種の、決死のダイブである。そう確信している読者ならば、これほどダイブし甲斐のある19篇を揃えた本もないだろう。
が、ダイブした果てに必ず生きて還れるという保証は、ない。
そこにフィクションとしての禁じ手がある。すなわち著者のエヴンソンは、「読書はフィクション内の体験なのだから、安全」という掟を破ったのだ。しかも平然と破っているのではない。戸惑いながら破っている。その戸惑いが、読者に感染する。
だが著者固有の感染力は他にもあって、それは何篇かの冒頭を抜き出して並べれば、伝わるだろう。
「何年も経ったいまも、彼女は依然姉に電話をかけて、いったい何があったのか理解しようと努めていた」(「年下」)
「自分がいかにして中西部のジーザスとなり、そこからいかなる惨事が生じたか、正直に供述書を書くよう私は命じられた」(「供述書」)
「それは異常な事故だった」(「助けになる」)
「父のいない暮らしは父が実際に亡くなる何週間か前、父が自分の頭を、オレンジ色のビニールのメッシュにくるんで撚り糸できっちり縛ったときから始まった」(「父のいない暮らし」)
ここにあるのは、読んだそばから強引にその“世界”に引きずり込まれる、という恐怖を伴う快楽だ。なにしろ“世界”は始まってしまっている。一行めに触れた途端に、逃げられない、という羽目に落ちる。しかも、その“世界”はどうしたって何かが間違っている。そう、私たち読者は「間違い」という世界に迷い込むのに、語り手はそこからの出口を示してはくれないのだ。なぜならば、語り手自身もつねに迷っている最中だから――。
こんな小説群があっていいのか?
おそらく『遁走状態』という短篇集は、表題作を一つ読むことで(立ち読みするには分量があり過ぎるが)、極めて正確に把握される。その傑作性も(もろもろ異論はあるだろうが)理解しうる。しかし、他に18篇も収録されており、それらを併せて読むという体験を経ることで、実のところポジティブな理解は消えてしまう。迷わされてしまうのだ。いったい、これは何なのか?
ここであえて、表題作の「遁走状態」は採らずに、「アルフォンス・カイラーズ」なる人名を冠した作品の話でこの文章を終えたい。この作品は、
「十月十二日の夜、いまだにどうにも説明しがたいいくつかの理由ゆえに、私はアルフォンス・カイラーズなる人物を殺すことを強いられた」
との一文で始まる。もちろん、その理由は説明しがたいのだから、やはり作中での説明はなされない。それ以上に、作品のバックグラウンドはほとんど説明が抛棄されている。だが、読み終わるや、ストンと落ちる。アルフォンス・カイラーズは殺されなければならなかったのだ、と。なぜならばアルフォンス・カイラーズは私だったからだ、と。その私とは、読者のことだ。それに気づいて、私たち読者はみな戦慄する。戦慄するだろう。
(ふるかわ・ひでお 作家)