書評・エッセイ

2014年3月号掲載

ざらざらした不気味さ

――前川裕『酷 ハーシュ』

吉野仁

対象書籍名:『酷 ハーシュ』
対象著者:前川裕
対象書籍ISBN:978-4-10-101461-6

 ちょっと「おかしな人」は、どこにでもいるものだ。
 たとえば、陰険で攻撃的な人、病的なまでに神経質な人、何かに夢中で周りが見えない人など、だれでも身近にひとりやふたりは数えられるはず。もしかすると、ある種の犯罪は、ふとした拍子でそういう人たちが追い込まれたり、抑えていたタガが外れたりして一線を越えたときに生まれるものかもしれない。なにより恐ろしいのは、その境界線上にいる「おかしな人」が、自分の身近な者だった場合ではないか。
 前川裕の描くクライム・サスペンスの凄みもまた、そこにある。隣人の恐怖だ。
 まさか、隣に住む者が血のしたたるナイフを手にしながら、じっとあなたの家をのぞいているとか、チャイムが鳴ってドアを開けるといきなりヤクザな男たちが土足で家にあがりこみ問答無用で暴力をふるってくるとか、通常ありえないだろう。だが、それは違う。前川裕の小説世界では、あたりまえのことなのだ。一見ふつうに見える隣人が、実はいささか度が過ぎた「おかしな人」で、ささいなきっかけで凶悪な顔をこちらへ向けてくるかもしれない。実際、いまの日本では保険金目当ての殺人や家庭内暴力などが数多く発生している。そうした犯罪が周囲で起こったり自分の身に降りかかったりしても、なんら不思議ではない現実がある。
 待望の最新作『酷 ハーシュ』もまた、作者の持ち味が十全に発揮された犯罪小説だ。身の毛もよだつ恐ろしい犯罪がごく近くで起こっていく。しかも謎は深まるばかり。
 プロローグで語られているのは、一九九三年、東京・吉祥寺のマンションで起きた殺人事件。新婚の夫婦がセックスをしている最中に何者かに襲われ、手斧で惨殺されるというショッキングで凄惨な事件である。
 そして、物語は現在に移り、主に警視庁捜査一課の刑事、手塚京介の視点で展開していく。あるとき手塚は、二年前に荻窪で起こった殺人事件の捜査に加わることとなった。新婚夫婦が手斧で撲殺され、およそ二万円ほどの現金が奪われるという残忍な犯罪だった。しかも殺された妻の口に、あるブライダルサロンの宣伝パンフレットが押し込まれていたというきわめて異常なものだ。
 警視庁の捜査会議では、強盗もしくは怨恨による殺人という見方が有力だった。ところが東大出のキャリア警察官である山上達彦は、サイコキラーによる猟奇殺人の可能性を示唆した。やがて手塚は、かつての上司で恩人である相良繁之に相談したのをはじめ、相良の娘・涼の先輩であり、くだんのブライダルサロンに勤めている徳川皐など、さまざまな関係者にあたり捜査を進めていった。そんなとき、ある人物の失踪につづき、第二の殺人が起こる……。
 前川裕は、法政大学国際文化学部教授でありながら、第十五回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した気鋭の作家。受賞作『クリーピー』は、現実に尼崎で起きた連続変死事件を思い起こさせられる異様な隣人犯罪を描いた傑作だ。続く第二作『アトロシティー』もまた、おぞましさの点では負けていない。押し込み強盗や少年犯罪をはじめ、極悪非道の連中がこれでもかと登場し、都会で暮らす恐ろしさを実感させられるクライム・サスペンスである。
 第三作となる本作もまた、良識や理性を持っているはずの隣人が、ひと皮むけば獣にすぎない現実をまざまざと見せつける。自分の伴侶や肉親さえも例外ではない。
 題名の「ハーシュ」とは、過酷な、厳しいという意味だが、辞書にはもうひとつ「(手触りが)ざらざらした、粗い」という言葉が載っている。この小説には、たしかに何かざらざらした不気味さがそこかしこに漂っている。ひとたびその感触を味わうと病みつきになってしまう何かだ。あなたの中の「おかしな人」は、これを読まずにおれないだろう。

 (よしの・じん 文芸評論家)

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