書評

2014年3月号掲載

現代を映し出す暗黒歴史小説

――萩耿介『極悪 五右衛門伝』

末國善己

対象書籍名:『極悪 五右衛門伝』
対象著者:萩耿介
対象書籍ISBN:978-4-10-335171-9

 社会構造が激変した幕末維新期の歌舞伎界で、盗賊をヒーローにした河竹黙阿弥の白波狂言がブームとなったことからも分かる通り、世の中が閉塞感に覆われると、常識や倫理を嘲笑う悪漢を主人公にした作品が増えるという傾向がある。これは、どれだけ不満があっても鬱屈を解消する手段がない読者が、自由に生きるヒーローに夢を託しているからである。
 その意味で、景気が上向いたと喧伝されているだけに格差の広がりが深刻になり、将来に希望が持てない若い世代が増えている今、萩耿介が最新作の題材に日本を代表する盗賊・石川五右衛門を選んだのは、必然だったといえるだろう。
 五右衛門は、秀吉が天下人になった頃に京で暴れまわったが、一五九四年に捕縛され、三条河原で釜煎りの刑に処せられた実在の人物だが、前半生はよく分かっていない。
 そのためフィクションの世界では、権力者から金を盗んで貧しい人々に与えた義賊、あるいは伊賀で忍術を学び、秀吉の暗殺を目論んだ忍びとされることも多い。これに対し本書は、まったく新しいアプローチで若き日の五右衛門を描き、五右衛門が“悪を極める”ようになった理由に迫っている。
 大隅の地頭・梅北国兼は、朝鮮攻めを進める豊臣秀吉に叛旗を翻すという息子・五郎太の策を取り入れ、同志を募って佐敷城の無血開城に成功する。五郎太は、すぐに次の攻撃目標にしていた麦島城へ向かうが、達磨坊主なる武将に捕まってしまう。達磨坊主の邪悪なたくらみで、妻と子、領民たちが次々と惨殺される一部始終を目にした五郎太は、精神的な苦痛を長引かせるため、生きたまま追放されるのである。
 冒頭から残酷なエピソードが描かれるが、これはダークな物語のほんの入口に過ぎない。やがてマニラに渡った五郎太は、秀吉への恨みを抱えたまま海賊として名を挙げるが、マニラの娼婦まりあの源氏名の由来を聞くため、デュルタル神父を訪ねたことで、人生の大きな転機を迎えることになる。
 秀吉の追放令で日本を追われたデュルタルは、昨日まで熱心な信者だった日本人がサタンのようになったことに衝撃を受け、悪魔信仰に走ったとされている。ただ、デュルタルは単なる背教者ではなく、この世が悪に満ちれば、神が救いの手を差し伸べてくれるはずなので、神の「恩寵」を見たいがためにサタンに祈りを捧げる屈折した人物なのである。
 自分と同じように地獄を見たデュルタルが、神を踏みつけるため足に十字の入れ墨をしていることを知った五郎太は、同様に足へ「仏」の入れ墨を彫りこむ。神仏との戦いを決意した五郎太が、処刑された妻子や、強烈に記憶に焼き付いたまりあ、デュルタルらの影に戸惑いながらも、魂の救済を求めて彷徨う展開が、中盤以降の重要なモチーフとなる。
 著者が、神父の名をデュルタルとし、物質的にも精神的にも最下層まで落ちた五郎太が、本当に再生するのかを物語の鍵にしたのは、作家のデュルタルが、娼婦フロランスの幻影に悩まされながらも、ジェヴルザン神父に導かれて回心するJ・K・ユイスマンス『出発』へのオマージュと思われる。
 だが、次第に安らぎを見いだしていく『出発』のデュルタルとは裏腹に、帰国して堺の問屋で働き始めた五郎太は、まさに地獄遍歴のような過酷な運命に翻弄されていく。
 これは、ひとたび転落すれば這い上がるのが難しい現代の状況と重なる。それだけに、五右衛門と名を変えた五郎太が、不完全な人間が支配者である限り、絶対に敗者の恨みが消えることはないと確信し、敗者を生み出す権力者に挑む決意を固めていく終盤は、共感も大きいのではないだろうか。
 ユイスマンスは悪魔主義に傾倒したが、その背景には、産業革命が加速させた実利・功利主義への批判があったとされる。著者が、ユイスマンスと犯罪小説を融合した暗黒歴史小説を書いたのも、効率を最優先する社会制度が、格差を再生産している現実を暴く意図があったように思えてならない。

 (すえくに・よしみ 文芸評論家)

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