書評

2014年3月号掲載

気高い逸楽の友としての猫たち

――坂本葵『吉祥寺の百日恋』

野崎歓

対象書籍名:『吉祥寺の百日恋』
対象著者:坂本葵
対象書籍ISBN:978-4-10-335131-3

 猫が人の心をとろかす魅力のおそるべきことは、いまさらいうまでもない。そこに猫が一匹いるだけであたりは和み、気持ちはいやされる。それだけではない。猫はあまたの芸術家たちにインスピレーションを与えてきたし、さらにはさまざまな作品の主人公となって活躍してきた。ペローの『長靴を履いた猫』や漱石の『吾輩は猫である』から、ジブリのアニメ『猫の恩返し』、はたまた最近の人気ドラマ&映画『猫侍』にいたるまで、猫たちの冒険物語は途切れることがない。そこに新たに加わったチャーミングな一作が本書である。
 現代の東京、井の頭沿線の吉祥寺や駒場といった場所を舞台に、猫たちが華麗な恋物語を織りなす。それらの界隈になじみのある評者などにとっては、何とも嬉しい趣向である。なるほど、井の頭公園も東大駒場キャンパスも、猫影の濃いところだ。その猫たちに言葉をしゃべらせ、少しばかり現実ばなれした自由を与えてやるだけで、物語はかくも楽しくふくらみだす。
 冒頭に描き出されるのは、ある秋の夜、人間たちの去った井の頭公園の池で催される「競技大会」の模様。猫たちが、公園内の鴨やカワセミ、カルガモなどに水上レースを競わせて盛り上がっている。自分で運動するよりも観戦しているほうがずっと好きというあたりが、いかにも猫らしくて笑いを誘う。とにかく他の小動物をいいようにこき使う「陸の王者」というのが本書における猫の位置づけなのだ。たとえば、ちょっと気のきいた猫ともなれば、井の頭線の電車にただ乗りなどという下品な移動方法は取らない。鴉二羽ないし四羽が曳く「鴉の飛行船」の籠におさまって空路をゆくという寸法。
 一方、猫と並んで権勢を誇るかに見えて、犬たちは飼い主に忠義を尽くすばかりで、せいぜい軍人としての資質しかもたず、猫たちの豊かな文化にひたすら憧れている。というわけで、作者は徹底して猫中心主義の精神を全編にいきわたらせ、あくまで優雅にして怠惰、ひたすら貴族的なしどけなさのうちに猫たちを解き放つ。まさにボードレールが讃えたような、気高い逸楽の友としての猫たちなのである。
 その趣向を支えるために、作者は粋な工夫を凝らしてみせる。猫たちは「人間文明の中で、真似のしやすそうなところだけを選り好みして」勝手に折衷的なスタイルの社会を作り上げているというのだ。その結果「江戸も明治も平成の世の風俗も、ごたまぜに混淆」されている。だから本書の猫たちのあいだには華族制度が残っていて、社交界だの侯爵家の園遊会だのといったものが立派に存続している。「平安貴族」よろしく香水をまとった上流猫たちは、折にふれ集ってはごちそうに舌鼓を打ち、歓談にふける。そしてもちろん、恋のたわむれに興じるのだ。そこでまぶしく登場するのが、容姿端麗にして神秘的なまでのオーラを放つ純血シャム猫の「錫乃介」と「永遠子」である。いずれ劣らぬ恋の道の達人だが、永遠子は錫乃介の兄の未亡人であり、義弟・錫乃介はその「忠実な下僕」としてかしずきつつ、二人してあれこれ色恋のたのしみを漁っている。
 この強力なる男女が、ラクロの名作『危険な関係』そっくりの陰謀をくわだてる。ところが、永遠子に命じられて深窓の令嬢を陥落させる役割を引き受けた錫乃介は、いつしか本気の愛にめざめてしまう。その相手の令嬢が谷崎の傑作『春琴抄』よろしく盲目の三味線の名手というのだから、ぜいたくなお話である。しかもストーリー進行の手綱はしっかりと握りつつ、作者はユーモラスな筆致に豊かな知性をにじませて、実に楽しく快調な語り口である。上野千鶴子氏の『おひとりさまの老後』に「ごろにゃん」という一語が出てくるといって猫たちが騒ぐなど、おかしな逸話がふんだんに盛り込まれている。
 絶世の美青年ながらダミ声という欠点をもつ錫乃介は、盲目の美少女をみごと陥落できるのか。最後に待ち受けるのはやはり、『危険な関係』ばりの残酷な破局なのか。とにかくこれは、不景気な世相をひととき忘れさせてくれる愉しみに満ちた快作だ。デビュー作というのだから一驚を禁じえない。大型新人の登場を喜びたい。

 (のざき・かん 東京大学教授)

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