書評・エッセイ

2014年3月号掲載

記憶と鎮魂の場としての書庫

――松原隆一郎・堀部安嗣『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』

田中真知

対象書籍名:『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』
対象著者:松原隆一郎・堀部安嗣
対象書籍ISBN:978-4-10-335291-4

 父が亡くなったあとに見つけた古いアルバム。そこにまじっていた船の進水式の写真。写っていた祖母らしき女性。しかし、それ以上くわしいことはわからない――。
「この写真が何なのかを知らないということは、『イエ』の由来が分からないということ……家屋としての『家』は相続しても、『イエ』の歴史や記憶は引き継いでいないのです」
 まるで小説のようにはじまる本書は、施主である社会経済学者の松原隆一郎さんと建築家の堀部安嗣さんが阿佐谷にユニークな書庫を建てるまでのドキュメントである。
 書庫をもつことは俗に男のロマンとも呼ばれるが、松原さんにとって書庫の建設は、たんに一万冊の本の収納の場をつくることにとどまらなかった。思い出のつまった実家は阪神淡路大震災で全壊。その後父が再建した家には過去の記憶の手がかりは見出せなかった。モノとしてのイエの喪失は、著者のアイデンティティのありかともいうべき「記憶」の危機でもあった。その記憶をどのようにして救済し、引き継いでいけるのか。それが書庫建設のもうひとつの重要なモチーフだった。つまり、そこは書物を通した知的生産の場であるとともに、祖父の仏壇をはじめとした過去の思い出を納める鎮魂の空間でなくてはならなかった。
 一見矛盾するかに見えるこみいった施主の希望を形にするにあたって堀部さんが最終的に考えたのは、きわめて奇抜なプランだった。それは地下から地上2階にいたる円筒形の吹き抜けの空間をコンクリートでつくり、その壁を本棚で覆い、その一角に仏壇を安置し、まわりにらせん階段をめぐらすというものだった。
 完成された書庫を筆者も訪ねたことがある。写真で見るかぎり、けっして広くはないし、これが本で埋め尽くされていたら圧迫感があるのではないかと思った。でも、実際に身を置いてみると、予想に反して、はるかにゆったり感じられる落ち着く空間だった。時の止まったようなこの落ち着きや不思議な静けさはなんだろう。
 そのとき思い出したのは、以前訪ねたアレクサンドリアに残るローマ時代の地下共同墓地だった。円筒形の空間をらせん階段で地下へ降りていくという構造が似ているばかりではない。この場所を包み込む気配には、あの古代の死者たちの家にただよっていた静けさと同質のものが感じられた。古代の墓地は密閉空間ではなく、ひとがしばしば入って供物を捧げたり、死者と対話をするための場所でもあった。そこでは時が歩みを止め、生者と死者が自由に言葉を交わす。
 じつは本を読むという行為にもそれに通じるものがある。とくに古代において書物とはほとんどの場合、死者の言葉だった。本を読むとは死者の言葉に耳を傾けることだ。だとすれば、この書庫全体にしみわたる不思議な静けさも納得がいく。
 のちに本書を読んで、堀部さんがこの書庫の設計と並行して、高知のお寺の納骨堂の設計も手がけていたと知った。「阿佐ヶ谷書庫と納骨堂を同時期に設計しているときには、この二つの計画の“違い”を感じていた。……しかし、こうして二つの建築が完成し、冷静に考えてみると、潜在的には同じテーマを追求してきていたのだ」と堀部さんは書いている。
「家屋としての『家』は相続しても、『イエ』の歴史や記憶は引き継いでいない」という松原さんの言葉のように、現代の日本ではイエについても、街並みについても、その記憶は引き継がれるどころか、上書きされる一方だ。街を歩いていても、それまでの土地の記憶とは縁もゆかりもない建物や街並みが次々とつくられ、以前そこになにがあったかすら思い出せないこともしばしばだ。その行く末に広がる風景を想像すると寒々しい気持ちにならざるをえない。
 いつの時代も、世界のどの場所でも、この世に豊かさをもたらしているのは死者である。書庫を建てるとは、彼らの声なき声に耳を傾ける場所をつくる、ということにほかならないことを、この本は教えてくれる。

 (たなか・まち 作家・翻訳家)

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