書評

2014年3月号掲載

鑑賞の力、説得される喜び

品田悦一『斎藤茂吉 異形の短歌』

俵万智

対象書籍名:『斎藤茂吉 異形の短歌』
対象著者:品田悦一
対象書籍ISBN:978-4-10-603741-2

〈素敵に「変」な歌が目白押し〉、〈珍奇な措辞や不自然な語法〉、〈歪んだことばづかいの数々〉、〈因果関係の把握が常軌を逸し〉、〈余人の追随を許さない歪んだ表現〉……これらがすべて、斎藤茂吉の短歌を評したものと聞いたら、多くの人は驚くだろう。生真面目な茂吉ファンだったら、不愉快に思うかもしれない。が、著者は、心からの敬意を持って、最大級の褒め言葉として、これらの表現を用いている。奇を衒うのではなく、むしろテキストに対して、これ以上ないほど忠実に寄り添った鑑賞。読み進むうちに、これらの評言に説得される喜びは、はかりしれない。
  一般的に歌人茂吉を有名にしているのは「死にたまふ母」だ。しかし、戦前の教科書では、さほど採用されてはおらず、戦後になって圧倒的な割合で登場するようになる。その経緯を丁寧に追いながら、著者が出した結論は「完璧な道徳教材」「教育的配慮というバイアス」だった。このようなバイアスはある意味、文学作品としての「死にたまふ母」への冒涜とも言えるだろう。教育現場での鑑賞のありかたも、いきおい表面的で偏ったものになる。
 本書の圧巻は、第三章。『「死にたまふ母」を読み直す』だ。一首一首、予断と偏見を持たず、ひたすら言葉に即して読み解いてゆく。この作業は、道徳教材から文学作品へ、一連を取り返すことでもあるだろう。時おり引用される「学習の手引き」や教師用指導書への、ちくちくした反論も見どころだ。
 有名すぎてわかったつもりになっていたあの歌、この歌に、まだまだこんな奥深さと不可思議さと魅力があったのかと、何度も揺さぶられた。
はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子なれば
寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば

 なぜ「母」という語をつかっていないのか。結句「われは子なれば」の倒置法の必然性。私自身、なんとなくこういう歌だと思って通り過ぎていた二首だったのだが、著者の評を読んだ後には、泣けて泣けてしかたなかった。これこそ鑑賞の力というものだろう。
「万葉集」に精通している著者ならではの、茂吉と万葉集との関わりへの見方も、まことに興味深い。「万葉調」は、けっして万葉の歌境に接近する手立てではなかったという指摘。万葉語の創造という刺激的な見解。「万葉の伝統の体現者」という役を演じきった茂吉。このあたりを詳しく論じたのが前著『斎藤茂吉』(ミネルヴァ書房)だった。その「別途一冊」として生まれた本書の「あとがき」には、学生のユニークな「死にたまふ母」レポートが多数あったが収められなかったとある。次はぜひそれを、「別途一冊」で読んでみたい。

 (たわら・まち 歌人)

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