書評
2014年4月号掲載
些細なほころびが世界を不安にさせる
――米澤穂信『満願』
対象書籍名:『満願』
対象著者:米澤穂信
対象書籍ISBN:978-4-10-128784-3
切実な。
米澤穂信の最新短篇集『満願』を読みながら頭をよぎったのはその一言であった。なんと、切実な。
たとえば巻頭の「夜警」は、こんな内容だ。
語り手を務めるのは、ベテラン警察官の〈俺〉、柳岡巡査部長だ。彼がかつての部下・川藤浩志巡査を追想する場面から物語は始まる。柳岡の勤務する緑1交番が、川藤の最初の配属先だった。勤続二十年になる柳岡は、川藤が警察官としての資質を欠いている人物であることを一目で見抜いた。
その予感は的中する。男が刃物を持って暴れている現場に駆けつけた際、相手を射殺したものの、自らも切りつけられて殉職してしまったのだ。勇敢な警察官という美談が残る結果になったが、柳岡は事の経緯に不審なものを感じていた。そのことを突き詰めて考えた結果、事件の背後に一つの歪んだ動機があったことを知るのである。
なぜそれは起こったのか。『満願』は、人間の不可解な心理を謎の中心に据えた作品集である。やむにやまれず他人を手にかける、あるいは自らの体を傷つけてしまう。そうした強い動機がどの作品にも描かれている。人の心は孤絶しており、中の動きは外部から窺い知れない。深奥で熟成されていったものが結晶した形を、米澤は各篇の最後に明かす。それぞれの結果はそれぞれの必然である。そうするしかなかった、という呟きを聞きながら、ああ、なんと切実な、と読者は畏怖の念に打たれる。人間が孤独な存在であるということを思い知らされる短篇集だ。
表題作になっている「満願」は、弁護士の〈私〉が若き日に手がけた殺人事件についての物語である。弁護することになった相手は、困窮していたころに世話になった下宿先の女性・鵜川妙子であった。彼女は夫が借金を拵えた相手を刺殺して罪に問われたのである。事件後、公判に臨んだ際に見せた振る舞いと、〈私〉が下宿時代に見聞していた彼女の人物像とが重ね合わされながら描かれていく。それが完全には一致しないところが本篇の肝である。
わずかに生じたずれの正体は何か、という疑念が〈私〉による推理を呼び込んでいく。切実であるのは、実は事件を引き起こした行為者だけではなく、推理者にとってもそうなのである。人は、目の前にある小さなひび、ほころびに気を取られることがある。見逃してしまえば些細なものであるが、それがいかに発生したかという謎に心を絡め取られると、解明するまで気が済まなくなってしまう。それを解釈し終えるまで、世界は不可解で不安なもので在り続けるからだ。
ここに実はミステリー小説の粋が凝縮されている。描かれる謎は決して巨大なものである必要はなく、発端はごく小さなものでかまわない。読む者の関心が引っかかる程度の、ほんのわずかなとげが生じていればそれでいいのだ。呈示された謎に対して、人は無関心ではいられない。そうした心理の間隙を巧妙に衝くのがミステリー作家の第一になすべき技芸であるということを、この短篇集は改めて認識させてくれた。
全六篇のバラエティに富んだ内容であることも本書の魅力である。すでに紹介した二篇に加え、別れた恋人との復縁を希望する主人公の心理と推理の進展とを絶妙な按配で綯い交ぜにした「死人宿」、主要登場人物はわずか四人ながらも万華鏡のように目まぐるしく相貌を変え、しかもエロティックな香りが漂う「柘榴」、国外に出て逞しく生きる日本人を主役とした立志篇と見せておいて、後半で転調してからのスリルが半端ではない「万灯」、都市伝説を扱ったブラックユーモア譚の如き「関守」と、こうしてエッセンスを抽出しただけでもその多彩さは明らかになるはずだ。
もちろんすべての作品に、これまでに述べたような切実さが充溢しているのである。さらにいえば、過去の短篇集『儚い羊たちの祝宴』(新潮文庫)で顕著だった、最後になって急にどろりとしたものが現れる、サプライズの趣向も幾篇かで試みられている。燦々とした陽射しが急にそこだけ翳り、ひやりとした感触を読者の心に残して物語は終わる。そうした居たたまれなさを味わうのもミステリーならではの楽しみなのである。心にざわめきを。そしてきらめきを。
(すぎえ・まつこい 書評家)