書評・エッセイ

2014年4月号掲載

バレエから得られる、無限の可能性。

――チャコット監修『お教室選びから着こなしまで はじめてのバレエ』

浦野芳子

対象書籍名:『お教室選びから着こなしまではじめてのバレエ』
対象著者:チャコット監修
対象書籍ISBN:978-4-10-335491-8

 小学校の低学年の頃だったと思う。従妹の家に遊びに行ったとき、これからバレエのお稽古なの、と言うからついて行って見学した。ちょうど発表会の練習をしていて、私と同じ年頃の子供たちがレオタード姿でステップを踏んでいた。楽しそうに見えたし、優雅なクラシック音楽も素敵だった。私は興味を持ったことは何でもやってみたくなる性分だったので、家に帰るとすぐ、母に「バレエを習いたい」と訴えたが、「うちの近所にそんな教室なんてないし、バレエなんてお金持ちのやることなんだからうちには関係ないの」とぴしゃり。受け入れてもらえなかった代わりに私は体操部に入って、とりあえずレオタードだけは着てみた。
 大人になり、なんとか自分で稼げるようになると私は子供の頃の夢を実現に移すのだが、やってみると、厳しい練習の世界がそこには待っていた。さらに、仕事でバレエダンサー達と接するようになると、彼女たちの口から、その可憐で優美なイメージとはかけ離れた、骨太で逞しい発言が次々と飛び出してくるのに驚く。彼女たちは、容姿や才能に恵まれたからプロになったのではなく、コンプレックスをどう克服し、個性にするか、そこに向かって努力する精神力を持っているからプロを続けていられるのである。
 今の子供たちはたくさんの情報に囲まれて育っている。でも、それがただ「知っている」ことで終わっていたらもったいない。今は、苦労・ストレス少なくしてさまざまな情報を手にすることができ、スマートフォンで“スマートに”表面的なコミュニケーションができる時代である。しかし楽して得たものにばかり囲まれていたら、“人間の底力”みたいなものが薄れてしまうのではないか。そんな心配をしてしまうのは、私がスマートフォンをスマートに使いこなせないおばちゃんだからだろうか?
 情報や知識というものは、ただそれを頭の中に並べておくのではなく、“自分”という入れ物の中で咀嚼したり攪拌したりあるいは熟成させたりすることで、知性や教養としてその人の精神性に組み込まれていくものだと、私は思う。そういう意味でスポーツやダンスはよいトレーニングになると思うのである。私はたまたまバレエの世界に学んだからバレエを通してそれを語ることになるが、“頭でわかっていること”と“全身で感じながら考えたこと”の間には大きな隔たりがあるのだ。たとえば“身体の力を抜く”という単純な動作にも、底が見えないほどの奥深い世界が存在する。それを追求する作業を繰り返すうちに、自然と自分と対話を重ねることになる。自分と対話する、というのは、なかなか勇気のいるものだが、それを繰り返すうち、思考と身体の芯がしっかりしてくる。
 2012年より、中学校の必修科目に“ダンス”が加えられた。文科省の趣旨はさておき、子供たちにはぜひ、この機会を、身体を使って思考を深めるチャンスにしてほしいと思う。
 バレエは一見華やかな世界に見えるが、そうした表現に到達するためにはさまざまな課題や問題、時には挫折感を乗り越えなくてはならない。あの優美さは、強さと表裏一体なのだ。また、バレエの経験は何もバレリーナになるためだけにあるのではない。ソチオリンピックで注目されたスキーの高梨沙羅選手のように、バレエで得た身体感覚をスポーツの道に活かす例もあるし、舞台芸術やクラシック音楽への知識を養う絶好のチャンスにもなる。まだ身体が出来上がる前の成長期にバレエを始めれば、美しい姿勢やきれいに伸びた脚、優美な仕草などが自然と身につくだろう。身体が教えてくれることは他にもまだまだある。バレエから得るものには、いろいろな可能性がある。まあこれは、すべてのお稽古事に共通して言えることだとは思うのだけれど。
 それにはまず「バレエって楽しい」「バレエが大好き!」というわくわく感が必要だ。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので、楽しい、好き、と言う気持ちは、努力を重ねられるモチベーションになる。それが、優美さと表現力を育むことにつながるバレエなら、多少の困難だって乗り越え甲斐があるというものだ。
 幸い(プロ育成が前提の)欧米のバレエ学校とは違い、日本のバレエ教育は広い人に門戸を開いている。バレエから得られる素晴らしい世界を、多くのこどもたちが身につけられるチャンスがあるのだ。
 かわいいウェアを着るのが嬉しかったから――はじまりはそんな理由で充分だ。

 (うらの・よしこ フリーライター)

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