書評
2014年5月号掲載
『ライアー』刊行記念特集
最も強く、最も危険な母親
――大沢在昌『ライアー』
対象書籍名:『ライアー』
対象著者:大沢在昌
対象書籍ISBN:978-4-10-333352-4
「女は弱し、されど母は強し」と喝破したのは文豪ヴィクトル・ユゴーであったか。
その伝でいけば本書のヒロイン神村奈々は、可愛らしい名前の響きから受ける印象とは正反対。さだめし「女は強し、しかも母はさらに強し」といえようか。
家族と上海旅行中の神村奈々は、旧友と会うという口実で別行動を取る。彼女には裏の顔があった。奈々は仲間とともに、日本のヤクザをホテルの部屋から転落させ、事故と見せかけて殺す。だが不測の事態が起きた。最終確認のため一人部屋に残っていた奈々の前に、予測より早くボディガードと上海マフィアが戻ってきたのだ。奈々は上海マフィアを射殺し、慌てて鍵を掛けてバスルームに閉じこもったボディガードを残し、部屋を脱出することに成功する。なぜかホテルのロビーはすでに警察官であふれており、奈々は上海市公安局に連行されてしまう。ところが公安局は、ボディガードが上海ヤクザを射殺したとして事件に幕を引く。釈放された奈々は、家族と合流し無事に帰国することができた。
中国側の事情に釈然としないまま、次の仕事に取りかかろうとした矢先、夫の洋祐が新宿のレンタルルームで、娼婦らしき女と一緒に焼死する事故が起きた。夫の性格に加え、女の身元が一向に判明しないことなどから、奈々はこの「事故」を、自分たちのようなプロによる偽装殺人と確信する。目標は女で、夫は巻き添えを食ったのではないか……。
大沢在昌といえばハードアクション。鮫島警部など男っぽい主人公がまず頭に浮かぶだろう。だが『天使の牙』の女性刑事・河野明日香、『魔女の笑窪』の「裏」のコンサルタント・水原など、女性陣も負けていない。
美女の身体に脳を移植された明日香は、心と肉体の乖離に悩みつつ、犯罪者を追い続ける。男の本質を読み取る特技を裏稼業に生かすのが水原だ。しかしその特技も実の祖母に売られ、「地獄島」で娼婦暮らしを強制された、凄絶な過去から身につけたものだ。このように、ヒロインの背景や内面がしっかり描かれているからこそ、彼女らの「男前」な行動が生きるのである。
近未来を舞台に潜入捜査官・櫟涼子(最後に明かされる彼女の本名に注目!)が登場する『撃つ薔薇』もそうだが、魅力的なヒロインが登場する作品は、完璧な脳移植や治外法権の孤島など、「大きな嘘」を土台にした作品が目立つことも興味深い。大沢在昌こそ最強の「ライアー」なのであろう。
本書のヒロイン神村奈々も、彼女ら先輩に引けを取らない存在である。
神村奈々、四十一歳。統計学の教授である夫の洋祐と小学生の智との三人暮らしで、消費情報研究所に勤務するキャリアウーマン、というのは表の顔だ。実は同所は政府が設けた非合法組織だ。「研究所」は上位組織「委員会」の命に従って、国家に不都合な人間を「処理」するのが本来の業務なのである。「処理活動」は国外に限られ、事故死や病死と判断されるように偽装をほどこすのだ。
神村奈々は、あらゆる事態の推移に柔軟に反応できる判断力と、その判断がもたらす状況を予測する想像力に長けた、凄腕の殺人者である。その一方で家庭では、夫と子供に優しく寄り添う、よき妻とよき母親という顔を崩さない。
通常、非合法で危険な任務に従事する者にとって、肉親――特に子供――の存在は足かせになりかねない。敵から反撃されたとき、守るものが多い方は立場が弱くなるものだからだ。なぜ彼女がそれを承知で夫と結婚する道を選んだのか。なぜ彼女は自分が命を失うことが恐くないのか。なぜ彼女は人を殺しても冷静でいられるのか、そしていかにして精神の平衡を保っていられるのか。ハードアクションに彩られた弛みないプロットの中で、さまざまな疑問への答えが明かされると同時に、神村奈々の人間像が見事に立ち上がるのである。
本書に登場する組織と人物は、誰もが嘘と偽装を身にまとっている。誰が真実を語っているのか、なにが真実なのか。偽りの生活が壊れた時に現れる残酷な真実に、奈々はどのように対応するのか。
「あなたは引退したら何も残らない。役に立たなくなった元人殺し。わたしは母親で、子供がいる」
同業の女性に向けた奈々の言葉は、胸に響く。
本書は、最強かつ危険な母親の物語である。そしてそれ故に、奈々と智を待ちかまえている凄絶な未来を思うと、慟哭を禁じ得ない。過酷な運命を切り開いた彼女らに、ふたたび出会える時はあるのだろうか。
(にしがみ・しんた 文芸評論家)