書評・エッセイ

2014年6月号掲載

『平凡』刊行記念特集

人生はやっぱり捨てたものじゃない

――角田光代『平凡』

星野博美

対象書籍名:『平凡』
対象著者:角田光代
対象書籍ISBN:978-4-10-105834-4

 私は生まれ育った東京の戸越銀座という下町で暮らし、近所に点在するコーヒーショップで一日の大半を過ごしている。店の常連は、この町で半世紀以上、下手すると八〇年くらいは暮らすお年寄りたちだ。私自身は二〇年ほど東京の西で暮らしていたので、在住歴はのべ四半世紀という、この町では新参者のうちに入る。
 お年寄りに囲まれて過ごすようになって七年がたつが、日々思うのは、人は揺るぎない個性を持っているなあ、ということだ。何十年という人生の中には様々な岐路があったはずだが、それらをすべてひっくるめて「いま」を作っているという、確固たる感じである。よく「自分には個性がない」と悩む若い人がいるけれど、長く生きれば個性的になれるよ、とアドバイスしたいくらいだ。
 角田光代短編集『平凡』を読んだのも、近所の喫茶店だった。一篇読み、顔を上げてお年寄りを眺める。また小説に戻る。耳の遠いお年寄り同士の会話に妨害され、しばし現実の世界に連れ戻される。次の一篇を読む。そうこうしているうちに現実と小説の世界が入り乱れてごちゃごちゃになり、表題作「平凡」の紀美子が自分の隣にいて、「どこかべつのところで」の庭子が自分とすり代わり、目の前のお年寄りがフィクションに思え始めた。これは実に不思議な体験だった。
 著者はこの作品で、「あの時違う選択をしていたら、別の人生があったのではないか」という、目の前の現実と架空の人生の間で揺れ動く主人公たちの、現在の一瞬を切り取った。彼らもまた、現実と虚構の間を行ったり来たりしながら、現在の一点に立っているのだ。
 私自身は、食堂にニラレバ定食はあっても人生にタラレバ定食はない、というのが持論だ。あの時ああしていれば、といま後悔するくらいなら、あの時点で必死に選択すべきだった。「あの時」の自分が「いま」の自分を形成したのだから、「いま」から変えるしかない。
 私がこの結論に至ったのは、強いからではない。逃げるのが嫌いだからでもない。弱いからだ。「いま」を受け入れるには、過去を諦める必要があったからである。
 この短編集には、イラッとくる女性が何人か登場する。「もうひとつの人生ってのがあるって、信じてみたいんだよ」と現実逃避する「もうひとつ」のこずえ。別れた恋人が「不幸になっていてくれないかな」と妄想する「こともなし」の聡子。かつての恋人の消息を確認しにやって来る成功した料理研究家、「平凡」の春花。本当に目の前で彼女たちが話しているような、リアルな苛立ちを覚える。そして次の瞬間、これこそ自分が否定したかった自分だと思い出し、ドキドキする。こういう自分を見たくないから、「諦める」しかなかったのだ。
 著者は、安易な成長や簡単な解決にはけっして導かない。この作品集が秀逸なのは、「イラ子」や「イラ男」が他者との関わりを通して、自分の「平凡」を見つめ始めていく、瞬間のきらめきなのだ。過去の自分と現在の自分、過去の彼や過去の彼女が入れ子のようにからみあい、一瞬のきらめきが訪れる。ページを閉じたあと、彼らがどんな人生を送るかはわからない。でもきっと、昨日とはほんの少し角度の違う道を歩いているはずだ。そう思えることが、本書の醍醐味なのである。
 もう一つの入れ子が本書には仕組まれている。それは角田光代自身の変化だ。私の心に一番しみたのは、行方不明の猫を探す庭子と息子を亡くした愛の邂逅が描かれた「どこかべつのところで」だが、この作品に著者の一つの願いが隠されている。これは読んだあなたに感じてもらうしかない。
 主人公とともに揺らぎ、著者とともに揺らぐ。人生はやっぱり捨てたものじゃないと思える、秀作である。

 (ほしの・ひろみ 作家)

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