書評・エッセイ

2014年6月号掲載

江戸の町に迷い込む

――志川節子『結び屋おえん 糸を手繰れば』

松田哲夫

対象書籍名:『結び屋おえん 糸を手繰れば』
対象著者:志川節子
対象書籍ISBN:978-4-10-120591-5

 一口に時代小説と言っても、いろんな作品がありますね。でも、大きく分けてみればふたつのタイプがあるようです。そのひとつは、たとえて言えば、現代の人気俳優がカツラをかぶって、ある時代の人物を熱演しているようなものです。和田竜(りょう)さんの力作『村上海賊の娘』はじめ、若手作家の多くが手掛ける作品はほとんどこのタイプです。
 では、もうひとつのタイプはと言えば、過去の時代の物語を読んでいるかと思うと、読者自身がその時代にタイムスリップしてしまったかのように感じられるものです。僕たちは、杉浦日向子(ひなこ)さんのマンガ、藤沢周平さんの小説など多くの作品で、こういう空気感を味わってきました。
 志川(しがわ)節子さんは、時代小説作家としては若手なのに、珍しく後者のタイプです。最新作『結び屋おえん 糸を手繰れば』も、ページを開くと、いつのまにか江戸の町に迷い込んだような気分になります。気がつくと、町のざわめき、風のそよぎ、光や匂いなどが身近に感じられるではありませんか。
 志川さんが時代小説に目覚めたのは、比較的遅かったそうです。結婚したお相手の方が池波正太郎作品のファンで、それに影響されて読み始めたとか。それなのに、ここまで書けるというのは、天性のセンスの持ち主なのでしょう。
 直木賞候補に選ばれた前作『春はそこまで』では、芝神明宮の門前町「風待ち小路」に生きる人びとが主人公でした。そして、絵双紙屋、生薬屋、洗濯屋など彼らの生業(なりわい)と心意気が鮮やかに描かれていました。
『結び屋おえん』では、こういう部分の描写がよりきめ細かくなっています。主人公やその周囲の人たちだけではなく、いろんなお店や職業の人たちが次々に登場してくるのも印象的でした。
 問屋なら味噌問屋、干鰯問屋、棺桶問屋、線香問屋、炭問屋、酒問屋、醤油問屋、材木問屋など、商家では小間物屋、葉茶屋、菓子舗、筆墨商、足袋屋、海苔屋、そして、一膳飯屋、芝居茶屋、料亭。さらには、貸本屋、魚の仲買い、井戸職人、指物職人、餅搗き屋、鋳掛屋、口入屋、大工の棟梁、植木屋、鳶人足にいたるまで。人びとが働き、町が活き活きと動いているさまが目に見えるようですね。
 さて『結び屋おえん』は、魚河岸に近い日本橋瀬戸物町にある芽吹(めぶき)長屋が主な舞台になっています。味噌問屋のお内儀(かみ)だったおえんが、不貞という濡れ衣を着せられて離縁され、この長屋に移り住んだところから、物語は始まります。途方に暮れた彼女は、長屋の人たちの飾らない人情に支えられて、しだいに自分の生きる道を見出していくのでした。
 夫や息子たちとの縁には恵まれていなかったおえんですが、それを補うかのように、人と人との縁を結んでいくことになります。訳ありのお見合いをはじめ、隠居老人の茶飲み友だち探し、夫婦げんかの仲直りなど、「結び屋」の看板を掲げて人びとの役に立っていくのです。
 この小説では、大がかりな出来事は起きませんし、強烈な個性を持った人物も出てきません。細部にまで血が通った描写とともに、心優しい人たちが綾なす極上の人情噺が展開されていくのです。読んでいると、登場人物たちの様々な言葉や振る舞いが、僕たち読者の心の琴線に触れ、得も言われぬ余韻を残してくれるのでした。

 (まつだ・てつお 編集者・書評家)

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