書評・エッセイ

2014年6月号掲載

「麻痺的不条理」の最良の使い手

――セス・フリード『大いなる不満』(新潮クレスト・ブックス)

円城塔

対象書籍名:『大いなる不満』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:セス・フリード著/藤井光訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590109-7

 条理はどれも似ているが、不条理は人によって様々である。
 たとえば加速していく不条理がある。風がちょっと吹いたおかげで猫が減り、ネズミの害で穀倉地帯が全滅したりするたぐいの話だ。あらゆることがどんどん手におえなくなっていき、坂道を転げるように言い訳が拡大していく。
 たとえば脱臼する不条理がある。何かがどこかで噛み違ってしまったせいで、筋がうまく進行しない。はなはだしくは時間さえもが脱臼する。自分ではまともだと思っている膝は抜けてしまっており、床をのたうち回る羽目になったりするのだ。
 セス・フリードの直面している現実をひとまず形容してみるなら、麻痺的不条理とでもなるだろうか。そこでは何かが拡大するでも壊れるでもなく、ただ麻痺したように停止している。たとえば「ロウカ発見」のロウカは氷漬けになっていた七千年以上前の人間であり、研究対象とされている。しかしそこで当面繰り広げられるのは、科学的な議論ではなく、研究者たちの妙に間の抜けたやりとりである。装置や検査の名前は妙に細かいくせに、研究の方向性はすっぽり抜け落ちてしまっている。まるでその世界には科学というものが存在しないようにも見えるわけだが、それならば、そんな装置や薬品が存在している理由がなくなる。科学は存在しているのだが停止している。そうして登場人物たちの誰もそれには気がつくことができないのである。
 どこにでも存在しうる不条理なるものにいちいち目をとめていては日常がまず成り立たないから、それが堂々と姿を現すのはやはり非日常ということになる。「ハーレムでの生活」は、ハーレムに所属することになった男の物語であり、「格子縞の僕たち」は奇妙な仕事を任されており、「征服者の惨めさ」の舞台はスペインによる南米侵略、「包囲戦」の舞台は包囲下の街というように、作者の目はほつれ目を追いかけるように非日常を求めて動き続ける。何かが停止している感覚の多くは漠然とした不安として到来するが、舞台が神話時代に置かれた表題作の「大いなる不満」となると、その出現も直接的なものとなる。そこで停止されているのは争いであり、理由は知れず、その地に争いは存在しない。たとえ捕食者と被食者の間でもそうなのである。争いが存在することも存在しないこともそれだけでは不幸でも幸福でもない。石が静止していることとぶつかることの善悪を問われても答えようがないのと同じだ。問題が生じるのは、ここでの登場人物たちが自分たちは木石ではないと知っているところにあって、ただ争いだけを停止されているところにある。争いが停止されるなら、争いを望む本能だって一緒に停止されていなければ困るのだ。
 何かが上手く回っていない、なにをしても食い違う、誰が出したのかわからない命令に従わなければならない、掟から脱出することが叶わないというモチーフはカフカ的と呼ぶこともできる。フリードがそこから一歩踏み出すのは、現実を突き抜けた勢いで虚構までをも突き破り、一回りして戻ってきてしまった感のある強い寓話性によってである。「フロスト・マウンテン・ピクニックの虐殺」での、毎年惨劇の起こるピクニックへどうしても参加してしまう人々や、「フランス人」での人種差別ジョークを披露してしまう主人公は、ひょっとするとそのまま、現代文明に対する風刺としか読まれない可能性さえある。説教くさい、ためになる寓話、でも現実味には欠けているよねと評することで押さえ込み、封じてしまいたくなるような不快さを強く伴っている。これはたとえば加速していく不条理がどこまでも突き抜けていくことで笑いに純化されていく様子とはひどく異なっており、現実の胸ぐらを掴んで揺さぶる腕のようなものに近い。そんな抽象的なものに胸倉を掴まれているという事実に思わず漏れる苦笑に似ている。だからその笑いはとても苦しい。
 しかし不条理とは他人に伝わるものなのだろうか。不条理は人によって様々であり、その伝え方さえも「筆写僧の嘆き」にあるように、書き手によって様々なのに。そんな答えようのない問いには、こう答えるしかない。セス・フリードは現状でわたしの知る限り最良の麻痺的不条理の使い手であり、藤井光は絶好の訳者であると、わたしは思う。

 (えんじょう・とう 作家)

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