書評・エッセイ

2014年6月号掲載

猫とはいったいにゃんであるのか

――中川翔子編『にゃんそろじー』(新潮文庫)

角田光代

対象書籍名:『にゃんそろじー』(新潮文庫)
対象著者:中川翔子編
対象書籍ISBN:978-4-10-125881-2

 夏目漱石、内田百閒、金井美恵子、町田康、保坂和志、村上春樹……『にゃんそろじー』の目次を見て、ああ、猫の人たち、と思う。宮沢賢治、角野栄子の作品にも猫が出てくるな、と思う。そして井伏鱒二や星新一、北杜夫という名前が入っているのを、意外に思う。夏目漱石と内田百閒という師弟、はたまた夏目漱石と半藤末利子という祖父と孫、幸田文と青木玉という母子、といった関係の名前が入っているのには、興味を引かれる。
 タイトルどおり、猫についてのエッセイと小説が並ぶ。作者も登場人物も、猫を愛してやまない人もいるが、猫嫌いも登場し、はたまた、愛していながらその愛情を表現しない人もいる。しかしながら、この文人たちが描く「猫」を読んでいると、猫が猫に思えなくなってくる。猫ってなんなんだろう? と不思議な気持ちになってくる。
 猫は唐突にあらわれる。
 病床の島木健作の前に、ふつうの猫の一倍半はあろうかという黒猫があらわれる。井伏家に迷いこんだ猫は作家に恩義を覚えさせ、そのまま十二年も居着く。十七歳の光野桃はマンションの廊下で向こうからやってきた猫と会う。お墓参りにいった保坂和志の前で、生まれて間もない子猫が顔面睡眠をしている。
 帽子から鳩が出てくる手品があるが、そんなふうに、何もない場所に忽然と猫はあらわれる。まるで、自分と出会ってくれる人間を見定めたかのように。そして彼らは、猫の狙いどおり、猫に「出会う」。食事をともにし、ひとつ布団で眠り、言葉ではない言葉で会話して、ともに暮らす。
 こんなふうに家にやってくる動物は、ほかにいない。ずいぶん昔なら、そんなふうな犬はいただろうけれど、今はあり得ない。昆虫は昆虫を捕りにいって捕まえるのだし、鳥やネズミは逃げるだろう。夏目漱石の時代から、保坂和志が顔面睡眠猫に出会う現在も、猫はまったくかわらぬ方法で私たちの前に登場する。
 そして、ゆっくり、もしくはあわただしく、さまざまな時間のなかで、消えていく。この一冊のなかでも、多くの猫がいなくなる。漱石夫人は鮭と鰹節ごはんを猫の命日に用意し、百閒先生は刺身を食べなくなり、小学生を知り合わせたモノレールねこはその後に続く縁を作っていなくなる。絶望し、自殺をする猫までいるという。
 忽然とあらわれて、私たちの家に住み着き、好き勝手に生きつつ、言葉も話さずに心を通わせ、そして消えて、私たちに癒えぬかなしみをあたえる。この動物は、いったいなんなんだろう?
 ふわふわのふにゃふにゃの、猫のかたちをした、何かべつの生命体なのではないか。もしくは、私たちがきっと在ると信じている「たましい」そのものなのではないか。
「人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う」と、保坂和志は書く。この作家は、以前、一ヶ月間、病の猫の世話だけをして「自分以外のものに時間を使うことの貴重さ」を実感したと書いている。私はこの言葉に、この一冊に通底するある真実が凝縮されていると思う。それは猫でなくてもいい、子どもでも老いた親でも犬でもカブトムシでも。でも、たまたま、猫だった。猫のかたちをした何かだった。
 あらわれて、消えるまで、時間の長短にかかわらず、猫のかたちをした何かは、人間に濃密な時間を与える。人生を無意味から救う。ときに、人と人の縁を作ることまでする。猫の消えたかなしみを知りつつも、人間がまた猫を愛してしまうのは、だからなのかと思い知る。私たちは人生に意味を持ちこみたいのに違いない。猫を人と言い換えても同じ。人を失うかなしみを知りつつ、私たちはだれかを愛することをやめない。私はずっと、私たちが強いからだと思っていた。そうではなかった。反対だった。
 編者の中川翔子さんは、猫の正体が猫ではなくて、じつはべつの何かだと私たちに教えるために、これらの作品を選んでくれたのではなかろうか。

 (かくた・みつよ 作家)

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