書評

2014年6月号掲載

追悼・渡辺淳一さん

驚くばかりの創作欲

中村淳良

対象著者:渡辺淳一

 華麗で野心的な性愛小説とユニークな発想のエッセイで日本の文壇を牽引してきた渡辺淳一さんが亡くなられた。近ごろ体調を崩されておられるとのことで、恒例の「藪の会忘年会」も中止となり心配していたのだが、あまりにも早い訃報に愕然としている。
 私が、新潮文庫の先生の担当となったのは、昭和51年の年度始めであった。先任担当者に連れられてご挨拶に伺った時、お宅はまだ鷺宮であった。仕事場も高田馬場駅のすぐそばに持っておられた。その頃すでに『花埋み』や『阿寒に果つ』といったベストセラーを発表しておられたが、「五木さんは全国区だけど僕は地方区だからな」とつぶやいておられたことが、記憶の隅に残っている。
 翌年には仕事場を公園通りに移され、続いてお住まいも奥沢にお移りになった。それを合図とするかのように、『化粧』『ひとひらの雪』と充実した大作が次々と生みだされ、たちまち先生は「超全国区」となられた。昭和55年には、『遠き落日』と『長崎ロシア遊女館』で吉川英治文学賞を受賞。それをお祝いして担当編集者たちと出かけた旅行がきっかけで、いまに続く「藪の会」が始まった。まさに渡辺さんが第二のステージに駆け上がる時をご一緒できたのだと感慨深い。
 新潮文庫としては2冊目の『パリ行最終便』を昭和52年に刊行させていただいたのが最初であった。幸い秀逸なカバーともあいまって、たちまちベストセラーとなる売行きを示した。短編集がこれだけの力をもっていることは例のないことだった。以後、毎年1、2点の新刊を刊行させていただくことができた。こうした魅力的な作品の力が、「文庫の時代」といわれた活況を支えてくれたのだと改めて感謝している。
 ゴルフもしない、銀座も苦手な私が渡辺さんの担当をさせていただくのに、心がけていることがひとつあった。渡辺さんは、筆の勢いというものを大切にされた。締切りぎりぎりまで溜めに溜めたもので一気に筆を走らす。そしてゲラになったものにもたっぷりと筆を入れる。後で直しを入れることがわかっているのなら、原稿の段階で推敲してくれればと考えるのが編集者なのだが、それでは筆の勢いが殺がれるというお考えを断固として変えなかった。そのこともあり単行本から文庫にするときに、なお前後のつじつまが合わない、いわゆる“疑問”が残っているケースがままあった。その疑問を解決するための十分な時間を確保していただくことが、こころがけたことである。渡辺さんも、どんなに忙しい時でも、いやな顔ひとつせず時間をとってくれた。雑誌担当者や単行本担当者と違って、作品づくりにタッチすることが少ない文庫担当者として、著者と接触できる貴重な時間だったのだ。
 仕事以外の思い出は、「藪の会」でのそれに尽きる。仕事場の家具を廊下やベランダに移し、車座になってやった石狩鍋の忘年会、ゴルフ組と観光組に分かれて大自然を満喫した北海道旅行などなど。編集者人生のほとんどをカバーするほどの長い期間、会社の同僚のような、あるいはそれ以上の濃い関係を他社の編集者と続けられたのも、ひとえに渡辺さんのお人柄による。仕事場近くのホテルでもたれた「着物を着る会」に、深沢七郎さんにいただいたまま一度も袖を通していなかった着物を思い切って着て参加し、すでに亡くなっていた深沢さんにやっと面目がたった思いをしたことも印象深い。
 これも「藪の会」の思い出から紡ぎだされることなのだが、鎌北湖への一泊旅行の帰りの車中で渡辺さんは、「歳をとったら、不能小説を書くつもりだ。谷崎の『瘋癲老人日記』のような。不能者の性的感覚は文学の大きなテーマだ」と話してくれた。この年がいつか、改めて調べてみると、なんと昭和58年、“ひとひら族”が流行語となった年であった。作家の旺盛な創作欲に驚くばかりである。この後、渡辺さんは、『うたかた』『失楽園』『愛の流刑地』と第三のステージにのぼりつめていった。その頃、お目にかかるたびごとに「不倫小説に忙しくて不能小説はまだまだですね」と挨拶したものだ。昨年上梓された『愛ふたたび』はそうした第四のステージの第一歩と考えられていたのだろう。
 渡辺淳一さん、たくさんの楽しい思い出をありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 (なかむら・あつよし 元編集者)

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