書評
2014年7月号掲載
三の物語
――カレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』
対象書籍名:『熱帯雨林の彼方へ』
対象著者:カレン・テイ・ヤマシタ著/風間賢二訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506711-3
三本の手を持つアメリカ人男性が、三つ乳房のあるフランス人の鳥類学者と恋に落ちる。どこで? 第三世界の雄たるブラジルでだ。そして自由(リベルテ)、平等(エガリテ)、友愛(フラタニテ)という名の三つ子が誕生する。アメリカ合衆国で日系三世として生まれたカレン・テイ・ヤマシタは『熱帯雨林の彼方へ』で、なぜこんなにも三に満ちた世界を書いたのだろう。それは彼女にとって、第三項を考えることが常に創作の源となってきたからだ。
若いころ早稲田大学に留学したヤマシタは、いったい自分は日本人なんだろうかという疑問にとりつかれる。「私に質問した人は驚いて叫ぶんです。えっ、じゃあなたは純粋な日本人なんですね! 『純粋な日本人』ってどういう意味でしょう? 私は傷つき、怒りを感じました。私の家族を含む多くの人々が、人種差別や社会的排除の痛みと長いあいだ闘ってきた国から私は来ました。人種的な純粋さなんて、私には価値があるとは思えなかったし、それが重要だとも信じてはいませんでしたが、それでも私は日本で、なんとか日本人と思われよう、日本人になりきろうとがんばったんです」(Circle K Cycles〔未訳〕)。
ほんの少しの違いでも日本ではおかしいと言われてしまう。それじゃあ私はアメリカ人なの、日本人なの。彼女のこの二択の問いを突き崩したのが、大学卒業後、十年を過ごしたブラジルだった。ポルトガルとアフリカ、インディオの文化が混ざったそこでは、日系人を含めたみなが親密に触れ合いながら、あけっぴろげに暮らしていたのだ。その国で彼女は、「純粋」なんて幻でしかない、と気づいて初めて楽になる。
ガルシア゠マルケスやボルヘス、ラシュディを読み、彼らの魔術的リアリズムに学びながら、ヤマシタがブラジルの人々に感じた魅力を作品化したのがこの『熱帯雨林の彼方へ』である。「感動的な無垢の牧歌と渺茫たる郷愁、そして忌まわしくも無情な運命」という、あまりにもベタなブラジルのノヴェラ(テレビの連続メロドラマ)そのままに、車椅子の少年が歩いたという奇跡に感謝すべく、長大な距離を裸足で行く巡礼の旅に出た青年シコ・パコは聖人となり、鳥の羽で耳のツボを押す治療法を見つけた老人マネは羽学の世界的権威となる。しかし彼等はいずれも、あまりにも残酷な運命の犠牲者になるのだ。
主人公は日本海に面した町で生まれたカズマサである。彼は子供のころ、突然現れた小さなボールと一体化してしまう。いつもカズマサの額の前に浮かんでいるそれは不思議な力を持っていた。鉄道のレールにできた、ほんの少しの傷も感知するボールの能力で、カズマサは日本とブラジルで乗客たちの安全を護るようになる。やがて鳩が運んできた奇跡のメッセージどおりにすべてのくじに当たり続け、巨万の富を得たカズマサだが、国際的な陰謀に巻き込まれてしまう。
アマゾンのジャングルで発見された、マタカンという名の天然のプラスチックが鍵だ。食べ物にも建築材料にも加工できるマタカンがもたらす巨万の富を独占しようとしたアメリカ企業GGGは、カズマサのボールに目をつける。実はボールは、地中のマタカンを見つけ出す能力も持っていたのだ。
何もない場所に突如近代都市を生み出し、その崩壊までももたらすマタカンは、マルケス『百年の孤独』に登場する村マコンドと響きあう。マコンドにはコロンビア内戦の暴力などあらゆるものが集まってきた。マタカンによってアマゾンに集まるのは、「書類の山、重要機密会議、過密スケジュール、仕事、エゴ、腐敗」、すなわち近代の悪いものすべてである。
登場人物たちは有名になり、快適な住居に住み、金持ちになる。だがそのせいで好きな人と過ごす時間は減り、人間関係が希薄になり、愛は薄れてしまう。マネは思う。「すべてはうまくいっているようだった。たえず目的があって充実している。それなのに、マネは、古臭い冗談、昔ながらの人物、そして米と豆とタピオカ粉の料理がどっさりと盛られた質素な皿が恋しかった」。
日系人によって書かれた魔術的リアリズム作品、という意味で希有な本書は、息つく暇もないほど面白い。だがその向こうには、日本人とは何か、そして現代人にとって幸福とは何か、というシリアスな問いが隠れている。本書の復刊をきっかけに、ヤマシタによる重要な著作が次々と翻訳される日本になってほしい。
(とこう・こうじ アメリカ文学者)