書評
2014年7月号掲載
白と黒の世界で起きた呪縛、そして解放
――乾ルカ『モノクローム』
対象書籍名:『モノクローム』
対象著者:乾ルカ
対象書籍ISBN:978-4-10-329982-0
連日報道される幼児虐待、あるいは保護責任者遺棄関連のニュースを見聞きするたびに胸が塞ぐ。その時、幼い子供たちは、その親は、どんな気持ちでいたのだろうか、と。
本書の主人公・沖田慶吾は「母に捨てられた子供」である。
五歳になった三月のある日、三日後に帰ると言い残し、ふたり暮らしのアパートから出て行った母は約束の日になっても戻らなかった。与えられた菓子パンも尽きた。冷蔵庫には何もない。窓の外は雪。空腹と寒さに耐えかね部屋を出た慶吾は、温もりを求めて近所の犬小屋にもぐり込み、ひもじさから犬の食べ残した〈御飯にホワイトシチューがかかったような〉餌を口にして眠り、翌朝、その家の住人に発見された。
以来、慶吾は児童養護施設で暮らしている。留守がちだった母。たまに部屋にいても自分など見えないように振る舞っていた母。冒頭からわずか三ページで、淡々と語られる慶吾の過去は、早くも読者の心を凍てつかせる。可哀想な子。酷い母親。母によって一人でいることに慣らされた慶吾は、常に他人の気配がある施設暮らしのなかで、早く大人になりたいと願う。大人になれば一人でも生きていける。誰にもすがらず、期待もせずにいられる。〈僕のことは僕一人が知っていればいい。理解者が欲しいなんて甘ったれたことを言う人間は、僕は嫌いだ。そういう人は、自分のすべてをわかった人から否定される事態を想定していない〉。
物語はそんな慶吾が高校を卒業し、施設を出て、就職先の寮で念願の一人暮らしを始めることから、ゆっくりと動き出していく。地元の信用金庫で働きながら大学の二部に通う忙しない日々が始まった。慣れない、緊張を強いられる仕事。先輩や上司が残業するなか、恐縮しながら駆けつける大学の授業。時間が足りない。お金が足りない。一人で生きていくのは、思っていたより簡単じゃない。慶吾にそう思わせたのには好意を寄せてくれる職場の先輩・北村真奈と、高校時代に出来た唯一の友人・香田純隆の存在があった。
ぎこちなく始まり、あっけなく終わった恋。必死で抑えてきた感情が溢れだし、亀裂の入った友情。流れていく時間。変わっていく心。随所に母親や香田との間に起きた過去のエピソードを挿入しながら、揺れ動く慶吾の心情を作者は丹念に描きだす。そのなかで、重要なモチーフとして使われているのが「囲碁」だ。
かつて。母は幼い慶吾の前で、いつも白と黒の石を並べていた。ぱちり、という音が放つ硬質な静けさと異常な緊張感。施設に移った慶吾は小学三年生のとき、テレビを見てそれが囲碁というものであることを知り、園長から手ほどきを受けた。上達は早かった。しかし母親に捨てられた慶吾は、戦略としての捨石を置くことが出来ず、棋力は伸び悩み、次第に石を握ることからも遠ざかった。だが、現状に足掻き続ける慶吾にひとつの決意をさせたのもその囲碁だったのだ。強くなりたい。あの人に、母に、勝ちたい。でも「勝つ」とはどういうことなのか――。
やがて慶吾は、ずっと目を逸らしてきた、母が自分を捨てた理由を知ろうと動き出す。伝手を頼り棋譜を手に入れた慶吾が、母らしからぬ泥臭い勝利への執念を目の当たりにする場面が、強く印象に残る。と同時に、本書は慶吾だけでなく母・貴子の物語でもあると気付かされた。諦めきれぬ道。けれど、もう手は届かないと悟りかけた道。慶吾は、知らずにいた、知ろうとせずにいた母の姿を、その棋譜に見る。
感動的な結末が用意されているわけではない。慶吾が親に捨てられた子供で、貴子が子を捨てた母親であることに変わりはない。けれど読後、慶吾は「可哀想な子」ではないと確かに感じられる。そして貴子に「酷い母親」だと烙印を押すことも私には出来ない。「モノクローム」というタイトルに込められた祈りが、深く胸に残る出色の物語である。
(ふじた・かをり 書評家)