書評

2014年7月号掲載

医療小説の“罪と罰”

――久坂部羊『芥川症』

久坂部羊

対象書籍名:『芥川症』
対象著者:久坂部羊
対象書籍ISBN:978-4-10-120342-3

 この度、『悪医』という小説で、第三回日本医療小説大賞をいただきました。賞と名のつくものははじめてなので、素直に喜んでいます。
 この賞は、「国民の医療や医療制度に対する興味を喚起する小説を顕彰する」ものだそうです。私の陰鬱な小説が、それに該当するのかどうか、自信はありません。
 私はもともと純文学を目指していて、ドストエフスキーやカフカを愛読しながら、文芸誌の新人賞に応募したりしていました。何度か最終候補にもなりましたが、受賞できず、もうダメかと思いかけたとき、幸運にも親切な編集者に巡り合い、デビューすることができました。
 医療小説を書き出したのは、現場の経験に小説的な側面を感じたからです。麻痺した手足に苦しむ高齢者は、いっそのこと手足を切り落としてあげたほうがいいのではないか。もちろん、現実にはそんなことはできません。しかし、小説でならできます。そう考えると、切断したあとの状況も想像され、仮想現実が広がりました。それをノンフィクション風に書いたのが、デビュー作の『廃用身』です。
 最近は、医療小説がちょっとしたブームのようで、小説誌でも特集が組まれます。心温まるストーリーや、ハッピーエンドも多いですが、私の小説は得てしてグロテスクで、イヤな終わり方をします。それは残酷で理不尽な医療現場を知っているので、簡単にハッピーエンドが書けないからです。
 現実が厳しいからこそ、フィクションの世界で甘い夢を見たいという人も多いでしょう。しかし、感動的な小説を読んで、現実もなんとなくそうなると思う読者がいたら、それは医療小説の大きな“罪”だと思います。
 医療小説を書くむずかしさは、患者も医師も一般の読者もそれを読むということです。患者に寄り添って書けば、医師はそんなことはあり得ないと怒り、医師に肩入れすると、患者は赤裸々な実態に絶望し、ほんとうのことを書くと、一般読者が喜びません。現実の医療はごく慎ましやかな力しかないのに、世間は過大な期待を抱いているからです。
 もうひとつ苦労するのは、専門分野の話をわかりやすく書くことです。上手に書けばリアリティが増しますが、下手をすると何を書いているのかわからなくなる。専門用語も、医療者にはわかるでしょうが、一般の読者には意味不明のものが多いでしょう。むずかしい言葉が続くと、話は“藪の中”になってしまいます。
 ならば、それを逆手に取って小説にしたらどうか。たとえば一人の患者の死について、医者の説明があちこちで食いちがうという話。芥川龍之介の「藪の中」のパロディです。
 たまたま「小説新潮」から短編を時折書いてほしいという依頼を受けていたので、連作にしようと考えました。
「鼻」は、長すぎる鼻を短くしようと悩む高僧の話なので、美容整形にハマる女性の話に。「羅生門」は、追いはぎ行為を正当化した老婆が、自分も追いはぎに遭う話なので、海外で臓器移植を受けた男が、募金をしてくれた人の利己主義を知って、自分も利己的に生きようとする話に。「地獄変」は、芸術のために我が娘を焼き殺す絵師の話なので、自分の脚を切断して、それを作品にする現代美術作家の話に。「蜘蛛の糸」は、地獄で自分だけ助かろうとした罪人が、ふたたび地獄に落ちる話なので、自分だけ助かろうとする患者を看護師が諫める話に。そして「芋粥」は、過ぎたるは及ばざるがごとしの話なので、過剰に親切なケアマネージャーの心遣いが、高齢者を困惑させる話にしました。
 これらの短編は、芥川龍之介が『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』から想を得て書いたものです。子どものころ、それを知って驚きました。小説の筋は、書き手が自分で考えなければならないと思っていたからです。だから今回、私も芥川の小説から想を得たわけです。
 その短編集が先日、発刊されました。タイトルはちょっとふざけて『芥川症』。カバーは私が前からファンだった浅賀行雄氏が、シブい芥川龍之介像を描いてくれました。
 こんなフマジメな医療小説を書いていると、今にどんな“罰”が下されるか、密かに恐れている私です。

 (くさかべ・よう 作家・医師)

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