書評・エッセイ

2014年7月号掲載

変身の過程をたどって、書物の故郷へ

――今福龍太『書物変身譚』

大竹昭子

対象書籍名:『書物変身譚』
対象著者:今福龍太
対象書籍ISBN:978-4-10-335791-9

 コンピュータの普及により関連用語が日常生活に浸透した。書物をハードウェアとソフトウェアという用語に置き換えれば、束ねられたページがハードで、書かれている中身がソフト。電子書籍も二つに分けて考えるとわかりやすい。
 だが、そのような理解には陥穽が潜んでいる。書物は二分法がなかった時代から存在し、もとは形式と内容が分ちがたくひとつに結びついていた。電子化が進んでそうした事実が忘却の彼方に押しやられていくのは、人間の出自を見失うにも等しいのではないか――。本書にはそのような切実な声が流れている。
『ウォールデン』の著者、H・D・ソローは植物と言葉が密接な関係にあることを指摘した。大地でも、動物でも、その内部を見れば一枚の湿った厚い「葉」lobe だという彼の主張は、形態的な類似だけを言っているのではない。自らが書き記す言葉の核心に、植物や葉にかかわる語彙の種が眠っているのを感じとっていたのだ。
『ウォールデン』のなかの the bulk of them という表現は、「大部分」の意味ではなく、文字通り「ひとまとまりの紙の束」のことではないか、という著者の指摘はその意味ですばらしい。ソローの思想や、その執筆に全霊を捧げた生活の姿までを目前に浮かばせる。言葉はそのような力をもちうるのだ。
 本は「死体のようなもの」というレヴィ=ストロースの驚くべき発言もまた、書物を一個人の作り上げた唯一無二の作品とみなす近代的な考え方に真っ向から反対するものだ。自分とは、そこで何かが起きる場所ではあっても、意図を持って何かを恣意的に行う主体ではない、と彼は考えた。「自我」という発想から限りなく遠いこの思想に、所有や署名の概念はない。重要なのは「匿名的な運動性が充満する交差点のような場」が発生することであり、単なる成果物として眺めるなら、それは彼には「死体のようなもの」にしか感じられないというのだ。
 ふだん私たちが書物、というときに思い浮かべるのは印刷された本である。だが印刷技術が生まれるまで、書物は手で書くのが当たり前だった。カフカの『流刑地にて』に登場する処刑機械は印刷機であるという著者の読み込みは、その意味で新鮮だ。生前に出したのは薄っぺらな掌編集だけで、残りは断片的に書き続けられた手稿ノートだったというカフカは、生涯をつうじて書物の原初と交渉をもったのである。
 記された文字の間からよみがえる記憶に着目したスーザン・ソンタグ、一本一本が見事に異なり、科学的分類や定義を裏切るキノコにとりつかれたジョン・ケージ、蝶の変容と飛翔力を借りて、記述された過去の自分と、それを記している現在の自分の相克を、自伝という形で展開したウラジミール・ナボコフ。いずれも書くことと生命活動の分離が不可能な作家たちである。
 最後の二章では、書物の原初として洞窟と琥珀が取り上げられる。これらのどちらもふだん私たちが書物と聞いて思い浮かぶものにはほど遠い。とりわけアクセサリーとして首にかける琥珀が書物だというのは突飛に聞こえるかもしれない。
 だがここまで読んできた読者の頭のなかには、形式と内容が一つになった時間のアーカイヴとしての書物のイメージが大きく膨らんでいる。「何が書物と呼ばれる権利があるのか?」というジャック・デリダの問いに深くうなずく気持ちが準備されているのだ。
「書物とははじめから『非在』である何かなのかも知れない」。
 著者のこの言葉には人間への信頼がある。書物が先にあるのではない。生成変化しつづける人間の生み出した想念が、いっとき書物という形をとって現れ出る。書物を読み込む営みがあるから、消えることと、死ぬことを抱えた書物は、何度でも人のなかでよみがえるのである。

 (おおたけ・あきこ 作家)

最新の書評・エッセイ

ページの先頭へ