書評

2014年7月号掲載

その向こうにあるものは

――加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』

高橋源一郎

対象書籍名:『人類が永遠に続くのではないとしたら』
対象著者:加藤典洋
対象書籍ISBN:978-4-10-331212-3

 この一冊の本には、たくさんのことが書かれている。どの一つ一つをとっても、重要であるようなことが、次々と、この本の中では書かれている。そういう種類の本について、簡単に説明することはできない。そのことを最初に書いておきたい。
 きっかけは、「あの日」だった。大きな地震があり、巨大な津波が東日本の海岸一帯を襲って甚大な被害を与え、原子力発電所で大きな事故があった。この国は、かつて味わったことのない、大きな混乱に陥った。なぜなら、その混乱は、単に自然の災害によるものではなく、この社会の奥底に遠因があるから、と思われたからだった。では、何が原因で、そして、どうすればいいのか。多くの人たちが、その問題について立ち止まり、あるいは歩きながら、考えようとした。そして、三年と少しの時が過ぎた。考えるべきことはあまりに多く、深く、どこに答えがあるのかはっきりとはわからぬままに、人々は、かつての日常へと戻りつつあるように見える。そんな中で、私たちは、この本を得たのである。
「三・一一の原発事故は、私の中の何かを変えた。私はその変化に言葉を与えたいと思っている」
 著者は、こうやって書き始める。それは、私たちの誰もが感じていた何かであり、それは言葉にすることができにくい何かでもあった。
「私の中で気づかれずにあった堅固な信憑が、ひっそりと死んだ。私は、その死について語りたい」
 では、著者が信じていた「堅固な信憑」とは何だろうか。それは、おそらく、この世界に住む、ほとんどの人々が信じていた「堅固な信憑」だ。あまりにも当然で、空気のように感じられる何か。私たちが生きることの底に置いてある何か。
 私たちは、資本主義社会に生きてきた。それは、人類がたどり着いた(現在のところ)最後の、最新の社会だ。確かに、この社会には問題もある。「ゆたかな社会」には「公害」がつきものだし、富の集中は格差をも生み出すだろう。だが、どこかで、わたしたちは「なんとかなる」と楽観的にものごとを考えようとしてきた。技術の進歩が、あるいは、それとは別の何かが、問題を解決するはずだ、と。だから、今日の問題を考え、遠い未来のことは勘定に入れずに生きてきた。だが、「あの日」が来た。「あの日」が、私たちに告げたのは、世界が「有限」であるという事実ではなかったろうか。巨大な原発事故の後、保険会社が、保険の契約更新を拒否したのは、そのリスクに耐えられなかったからだ。私たちの社会は、責任を持って引き受けることのできないものを生み出してしまったのである。
「三・一一の原発事故の後の事故原発への保険の打ち切りが、『ああ、もうダメだ』という産業システムからの声に聞こえた。そのギブアップが、世界史的に何を語っているのか、と考えたことがその出発点だった。…中略…
 有限性の時代とは何か。それは、まず、無限性の時代を成り立たせてきたさまざまな条件が臨界に達し、そこで一対一の対応関係の関節がはずれてしまった時代のことだ。生産とリスク、産業と自然、責任と賠償、犯罪と罪科、欲望と力能など、さまざまなところで、それまでの関係の関節がはずれかかっている」
 では、その「有限性」の時代に、私たちはどう立ち向かえばいいのか。著者は、「よい知らせとわるい知らせがともにある」という。
「わるい知らせ」とは、もちろん、かつての「無限性」が信じられた時代に戻れない、ということだ。そして、「よい知らせ」とは、この新しい「有限性」の時代に生きている私たちは、その時代から「私たちの頭、身体にだけでなく、心にも意識されずに」働きかけられていることだ。その「よい知らせ」によれば、私たちは、身体の奥深く、心の中から、変わりつつあるかもしれないのだ。
 では、私たちは、どう変わるのか。いや、どう変わるべきなのか。最後に著者がたどり着いた結論は、読者のみなさんが自分で確かめてほしい。そこには、新しい「信憑」が生まれようとしている。それは、脆く、弱く、繊細だが、それこそが、「有限性」の時代の「信憑」の徴なのである。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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